トワイライト
顔がよし、背よし、ノリよし、加えてカリスマ性があって、女はもちろん、男も皆、彼のことを好いていた。それでも自分のポテンシャルに胡坐をかいて適当に女で遊びまくることもなく、決して誰にも調子に乗った発言をぶつけることもなくちょうどいい距離感を保っていて、その他人や人生に対するほどよい無頓着さに皆また惹かれていった。
彼と飲み会でたまたま隣の席になった。
綺麗なEライン上の唇から発される、心地よい低さの声とスピード、不快さを一切与えない抑揚。目を伏せたときの長い睫毛が、目をあげたときにできる少し末広な二重の瞼を形作りながらゆっくりと上がっていく様があまりにも美しくて、私の瞳にはスローモーションのように映った。
彼はうまく私にも話を振ってきて、それに対するリアクションも話の広げ方も、今まで出会ったどの男性よりも上手だった。私がコーヒーに間違えて塩を入れてしまった話をしたら、「そんなバカなことあるわけないでしょ(笑)」と、笑いながら私のことをいじってくれたのが、嬉しかった。地元の田舎を出て大学から京都に来て、髪を染めてドラコスでメイクをして、少しだけ垢ぬけただけの可愛くもない女を、中高私立一貫校で育った他の可愛い女の子達と同様に扱ってくれたのが、嬉しかった。
京子が、彼を、自分の恋人として紹介してきた。
強い日差しに充てられた京子の白のワンピースの反射が眩しくて、煩わしかった。
蝉の声が五月蠅くて、京子と彼が話しているのが、ひどく遠くに聞こえた。
京子は私に彼の話をたくさんした。私はただ聞いていた。夏休みには、サークルのみんなからは少し離れたところで、江ノ島の青い海と共に映る、京子と彼のツーショットのカメラマンをした。秋が来て、キャンパスの中庭の色とりどりの紅葉と共に映る、京子と彼のツーショットのカメラマンをした。冬が来て、大雪が降ってテストが延期になった日に、公園に集まって作った雪だるまと共に映る、京子と彼のツーショットのカメラマンをした。
私は京子から渡されたiPhone13で、画面越しに京子の隣で笑う彼の笑顔を見てきた。
大学を卒業後、私は東京の不動産会社で事務職をしていた。京子と彼は、4回生の夏休み前に別れたと当時サークル内で密かに噂になった。京子は本当に彼のことが好きで、ずっと結婚したいと言っていたのに、彼女から振ったと聞いて驚いた。就活で忙しくて何となく遊ぶ回数が減っていた京子と久しぶりに飲みに行ったときに、やつれて憔悴した彼女の姿が酷く痛々しかったのを覚えている。
私は、付き合って3年目になる彼氏がいる。友達の紹介で知り合った貴仁。私のことをすごく大事にしてくれるし安心感をくれる。無防備な寝顔が愛おしいと思う。でも、彼と飲み会で話したときの、あの胸が高鳴る感覚を感じたことはない。
金曜日はいつも安めのバーで飲んでいた。私だってもっと高いお店で合コンやクラブなど派手な遊びをしてみたいと思う。しかし、自分の身の丈に合った場所で飲み、そこで出会った身の丈に合った男に持ち帰られるのが、寂しさを埋めつつうまく生きていくためには一番コスパが良いと、27歳になる今、そう思う。キラキラの世界に憧れて、夜職で金を貯め顔面フルカスタムをし、精神を壊しながら遊ぼうとする女は増えているけれど、私にはそんな勇気も根性もないから、この顔で相応の場所で生きていくしかない。
また店のベルが鳴って、扉があく音がした。さて混んできたし、そろそろチェックしようと、そう思って店員に声をかけようとしたその時、あの心地よい声が聞こえたのだ。振り返ると、前髪を分けてスーツを着た、大人になった彼がそこにいた。
適当に別のバーに移動した。カウンターに横並びに座ると、あの頃と同様に、彼の綺麗なEラインと美しい睫毛をじっくりみることができて、ただ違うのは、汚い居酒屋の雑音の中ではなくて、ほんのり暗い間接照明とおしゃれな音楽が流れている中での彼は、大人の色気を纏っていて、とても魅力的に感じてしまった。たまたま仕事で近くに来ていたらしく、私を見つけて驚いたと笑った。総合商社で、顔もカリスマ性も備えた彼がモテないはずはない。
それでも自分からそのような話をすることはなく、私が、遊んでないの?と聞くと、みんなが思ってるほどモテないよ、忙しいしね、と。
卒業してから5年ぶりに話す昔話は楽しくて、と同時に私の気持ちを蒸し返させて、心に無駄な期待と寂しさを募らせた。京子のような中高一貫でそのままエスカレーターで大学に入学し、幼少期には海外に住んでおり語学堪能で、ミスコン並みのかわいい女がゴロゴロいるという現実が、田舎から出てきた可愛くなければたいしたポテンシャルもない私を何度も苦しめた。現実を突きつけられ傷つくことを繰り返して妥協することを覚えて、結局ずっと勝ち組で生きてきた女には勝てないのだと、もう世界の違う彼のことは忘れようと、そう思っていた。そんな私の何年もかけて苦労して積み上げた諦めは、この1時間で崩れ落ちてしまった。
少し期待した。
店を出てから、散歩しようと彼が言った。生ぬるい初夏の風が心地よかった。最後に飲んだジントニックが回ってきているのもあってか、ひと夏の夢でも見ているようだった。きっとこのままホテルに行っても、私が不幸になるだけだろう、この人は京子のようなレベルの女の子と付き合うのだから、これ以上無駄な期待をする私の馬鹿な脳みその部位を刺激しないでほしい、いやでも、彼が抱けるだけの女であると認めてもらいたい、ずっとカメラマンをしていたけれど、画面越しの向こう側の女に、今晩だけはなりたいと、一人で自問自答しては浮かれていた。
彼は、私を改札まで送り届けて、最後まで手を振ってくれた。
「まもなく1番線に電車が参ります。黄色い線の内側に立ってお待ちください」聞きなれた放送、飲み会帰りの女子大生の声、部活終わりの男子高校生の声。それらの雑音すら心地よくて、通り抜ける特急の風に身を任せながら、ホームに佇んでいた。
思わせぶりなことをしない彼のやさしさなのか、はたまた私が不細工すぎて抱けないのか、どちらかはわからない。しかし、煩い居酒屋での記憶と、静かなバーでの記憶の美しいコントラストが、前よりさらに私の心を捕えてしまい、これから先もこの呪いに苦しみながらまた妥協心を育てていかなければならないのだろう。
家に帰ったら、貴仁は寝ていた。
ここ最近は忙しいようで、疲れているようだった。私はその理由を知っている。彼がこっそり箪笥の奥に隠している指輪。来週は私の誕生日だ。
寝ている貴仁を見る。無防備な寝顔。この家賃15万の1LDKで一緒に住み始めて、2年たつ。壁に立てかけられたコルクボードに貼られたたくさんの写真たち。お世辞にも美男美女とは言えないカップルが、幸せそうに笑っている。私に相応の幸せは、きっとここにあるのだ。
それでも、彼のあの一瞬の輝きに浮かされた心はまだ着地することはできず、強い衝撃の後に見る日常はあまりにも平凡なもので、以前ほど貴仁の寝顔を、愛おしいと思えないのだ。