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朝井リョウ著『生殖記』の感想

個人的には、多感な10代・20代において、無為な生命力の受け皿となってくれたという意味で、小説にはこの上なく感謝しています。私にとって小説は他の娯楽には代えがたい存在です。ただし、これはあくまで私個人の意見であり、他の人にも小説を楽しめと言いたいわけではありません。また、小説を過剰に価値あるものとして崇め奉るのも少し違うのではないかと感じています。

そんな小説好きでありながらも、「万人に勧めるものではない」と思う私ですが、唯一手放しで小説の素晴らしさを語れる点があります。それは、他のメディアに比べて「純粋に物語を摂取する」体験ができるという点です。

上手く説明できるか分かりませんが、出来事を文字で表現するという行為は、それを抽象化し、言語化することに他なりません。同様に、私たちが出来事を理解する際にも、それを抽象化し、しばしば脳内で言語化するプロセスを経ています。つまり、私たちは常に自分自身が抽象化した世界しか見ることができません。この抽象化は、経験、知識、体調、環境などに依存し、常に変動するものです。そして、他人が全く同じように抽象化することはほとんどありません。

小説、とりわけ一人称の小説は、出来事を作者が主人公の目線で抽象化し、文章化したものです。その文章を読者がさらに抽象化し理解することで、物語が読者の中に立ち上がります。このプロセスにおいてさえ、著者が意図した主人公の抽象化を完全に再現することは不可能ですが、一人称小説は、他のメディアに比べると抽象化のズレが比較的少ないのではないかと思います。

言い換えれば、小説は私たちが他者の解釈で世界を見る最も容易な方法であり、それゆえ「純粋に物語を摂取する」体験が可能だと感じるのです。

そういうわけで、私は自分にない視点をもたらしてくれる小説が特に好きです。その意味で、主人公が「生物の生殖器に宿る超越的な何か」というユニークな視点を持つ本作は最高でした。人間社会を見る目線が、人間社会の枠内でセコセコと右往左往する我々とは全く異なり自身の抽象化との差異に知的興奮を覚えました。

生物には基本的に「種の繁栄」という本懐があり、そこを基盤に私たちの社会が成り立っています。結局のところ、私たちはその本懐に貢献する行動を通じて幸福感を覚えるよう進化してきたわけです。(種の繁栄に喜びを見いだせない個体は淘汰され、喜びを感じる個体が生き残ってきた結果だと考えられます。)

均衡、維持、拡大、発展、成長といった概念が個体や組織の命題となるのは、それが種の繁栄につながるからです。そして、それらの命題を追求することに幸福感を覚える個体の集まりが、私たち人間社会と言えるでしょう。

そう考えると、成長や社会貢献、生産性の追求とは、突き詰めれば個体が幸福感を求める行為に過ぎません。しかし、これを理解せずにいると、それらの命題を本来以上に価値のあるものだと錯覚し、さまざまな誤った行動を引き起こすのではないでしょうか。

例えば、他者を攻撃したり、過労で健康を害したりするのは、本来、幸福感を得るために行ってよい行為ではないはずです。しかし、そこに「組織の成長」「社会の発展」「生産性向上」といった、種の繁栄に関わるキーワードが加わると、平然と他者を攻撃したり、自分を犠牲にしたりする人が出てきます。

繰り返しになりますが、これらの命題は煎じ詰めれば「自分が幸福感を得るための手段」に過ぎません。他人を攻撃したり、自分を追い詰めたりしている人たちは、少し立ち止まって考え直してみるべきではないでしょうか。

ぼかぁそう思うな。


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