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苦しみ悲しみへの耐性は人によって違う

私は発熱に大変弱いです。平熱が低めのせいもあるのか、37度を超えると途端にあちこちの関節や頭が痛みだし、簡単にへこたれてしまします。

私の家族は37度程度ではびくともしないようなので、発熱に対する耐性には個人差があるのだと実感しています。

体温37度で私と同じように関節の痛みや頭痛を感じているのに、へこたれずに耐えているのか、それとも本当に37度程度では不調と感じないのか正直私にはわかりませんが、発熱に対する体の反応 (関節の痛み、頭痛など)も人それぞれだし、痛みに対する耐性もひとそれぞれなのではないかと感じています。

同じように心の耐性、悲しみや苦しみに対する反応や耐性も人それぞれで違いがあるのだと思います。

南国の若いエンジニアがへこたれている時や落ち込んでいる時に、その理由を聞いて、誰にでも同じように「その程度のことでへこたれるな。がんばれ。」とか、「私だってそのぐらい頑張って乗り越えたのだから、君だってできるよ。」などと励ますのは正しくないなと感じています。

人によってそれが本当に励みになる場合もあれば、かえってプレッシャーとなってさらに辛くなってしまう場合もあるようです。私はそのような場合の人との接し方をずいぶん気にしてきたつもりではありますが、やはり自分を基準にして、励ましたり、慰めたりしてしまったなと反省するときもあります。

歳を重ね、失敗を重ね、私はこう思うことがあります。

私たち一人一人は、材質も大きさも違う悲しみ苦しみを受け止める袋を持っているのだと。

その袋がいっぱいになった時、私たちは耐えきれなくなってしまうのだと。

小さな袋を持つ人は、すぐに限界に達してしまうのは仕方がないことだと。

人それぞれが持つ袋の大きさや材質はなかなか分かりませんが、悲しみや苦しみを誰もが同じように感じるわけでも、誰もが同じように耐えられるわけでもないのだと。

こんな時は、お互いに相手の気持ちを想像しながら、相手の反応を見ながらコミュニケーションをとっていくことが大切だと感じます。

ところで袋から溢れ出た悲しみや苦しみはどうなるのでしょう?

溢れ出た悲しみ苦しみは周りの人が受け止める。それでも受け止めきれなければ、さらに周りの人が受け止める。そしていつかサラサラとどこかへ流れ去っていくのかな、などと想像したりしています。

科学的ではありませんが、人の悩みを聞くときの心の持ちようとして、こんなことを考えたりしています。

私も含めて、耐えられなくなったら、袋から溢れる前に、あるいは袋が破れる前に、ぶちまけたっていいですよね。一人ですべてを背負うことはないってことだと思います。

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