父の死と葬儀について思うこと
父の本当の心の内までは推し量ることはできませんが、父は生前、「葬儀はしなくても良い。特定の宗教も信じていないから」と家族に話していました。
父は生前から医療の発展に少しでも役立ててほしいと、献体することを望んでいて、私たち家族はその言葉に従って、亡くなるとすぐに病院から検体の手続きをとり、遺体を医科大学に預けました。
父の言葉通り、母はとくに葬儀を行わず、生前親しくしていただいた方々がときどき訪ねてきてくださるのを、個別に家にお迎えし、父の生前の思い出話などをしていたようです。
家には、父が執筆したり、かかわったりしたゆかりの書籍を置く小さな本棚を置いて、家族の思い出とする小さな場所を設けました。その上には父の遺影を飾っていました。
ただ、訪ねてくださる方々の中には、故人へのお参りや挨拶と言えば仏壇のイメージが強いらしく、「お仏壇みたいなものがないと、本棚と写真だけでは故人にご挨拶しにくいよ」とおっしゃってくださる方々もいたようです。
私たちの文化の中で、故人宅でのお参りや挨拶と言えば、「仏壇にむかって」というイメージが強いということですね。そしてそれはたぶん、神道の祖霊舎でも、キリスト教の祭壇みたいなものでも構わないのだと思います。なにか故人に挨拶をするための象徴的な、それらしいものがあったほうがしっくりくるということなのでしょう。必ずしも仏教の仏壇でなければだめということではないのだと思います。
そのような言葉を受けて、母は本棚の上を仏壇風にアレンジしたようです。また、父が生前お世話になった方々に、後ほど大変心温まる「偲ぶ会」を開いていただきました。父のためにありがたいことでしたし、参加してくださった方々の心のやり場として少しでも役立てていただけたのなら幸いです。
葬儀やお参りは、故人の気持ちももちろん大切ですが、残された人たちの気持ちのやり場をととのえることでもあるのだなと考えさせられました。
さて、今話題の国葬の問題ですが、多くの方々は生前から自分のために国葬をしてほしいと明言はしないと思います。生前に故人と深い親交があった方々や功績を認める方々にとって、ご自分たちの心のやり場、心の納得感が得られる場、お別れの言葉を述べることができる場があることが一番大切なのだと思います。
国民だれもが故人と親交があったわけでも、実績を評価しているわけでもない中で、国葬はそぐわないと思います。ぜひ、望む人たちが、望む人たちの用意できる予算の中で、望む人たちが納得する形で、葬儀をとりおこなっていただければと思います。
弔問外交に期待する声もありますが、これは国葬とする理由にはならないと思います。弔問外交に期待するのではなく、予算と目的を明確にして、積極的にこの難しい国際情勢を解決するために海外に行ったり、海外要人を招へいしたりするほうが、予算の対費用効果も評価できて良いのではないでしょうか?国葬については再考を望みます。