『The Days After 3.11』 頭と心がバラバラで抜け殻のような生活の中で :牛来美佳さん#3
牛来さんのアパートと実家は海から離れていたため、津波で家族の命を落とすことはなかった。
しかし、浪江町の沿岸部では、津波によるい甚大な被害があった。
「救助隊も入れず手付かずのままで放置されたあの異様な光景は、すごくリアルな映画撮影セットみたいでした。」という言葉が印象的だ。
大きな揺れによって、傾いたり倒壊した建物もありますし、道も凸凹でアスファルトがおもちゃのようにうねって割れてたり。
道路が落ちていることもあったそうだ。
震災直後は抜け殻のような状態。
現実と心がバラバラだった日々から、希望の祈りを込めた歌ができるまではどのような過程だったのだろう。
「その記憶から消せるものなら消したいですが、ずっと残っているものだと思います。やっぱり震災直後に遡れば遡るほど、起こっていた現実と自分の頭の中と心がバラバラで、もう一致することがないというか。だって、普通に暮らしていてた生活が一変した上に、住んでいた場所に帰ることさえできない経験ですから。」
町から人がいなくなったときの風景や情景は、まさにゴーストタウンだったと語る。
震災後しばらく、命は助かったとはいえ、牛来さんはどこに行っても心ここにあらずで抜け殻のような状態がずっと続いていたそうだ。
人生の中で今まで感じたことのない、本当の無力というものを感じたという。
「何ともない普段の日常や、自分が当たり前のように存在していること。それが本当は奇跡の中になるものなんです。」
そして震災から2年後、音楽家の山本さんと歌詞を共作しながら、牛来さんは本格的に曲をつくり始めた。しかし当初、震災当事者である自分の言葉は強すぎたと振り返る。
"今はこんな姿になっている。街に誰も人がいなくてこんなに朽ち果てて。それでも浪江は存在している。"
どうしても思いが前に出てしまい、訴えかけるような言葉や表現が多くなってしまったという。
「しかし、山本さんと色々話しているとき、彼も演奏のために浪江町にきた時、本当にすごく空が綺麗だと仰っていました。
野外ステージの際、町民の人たちがビール瓶のケースをひっくり返して、それをテーブルにして地面に座っていて。田舎町の暖かさをとても感じてくださっていました。"あの綺麗な浪江の空の下で、またいつかたくさんの人々が会えるように。" そんな願いを込めて歌をつくらないかという話になり、制作が始まりました。」
こうして生まれた、"いつかまた浪江の空を"。
山本さんが、ふわっと祈りと願いを込めるような柔らかさを持ちながら、未来に託した思いに表現に考えたり、アドバイスをしてくださったからこそ完成した曲だと語った。
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