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静まりかえった流山の不思議 沈黙する新選組の霊

落日の新選組が勝沼で大敗戦を喫して、這う這うの体で逃げてきたのが、流山。千葉県民の方ならわかるだろうし、関東では名前くらいは聞いたことがある程度に有名だと思う。近年は若年層を含めて人口増加も著しく、いわゆる旬の街であるともいえる。もともと水運が盛んで大いに繁栄していた街ではあったが、明治期あるあるで鉄道敷設に反対して以来、長らく流山は東京23区のほぼ隣でありながら、あか抜けない地味な印象が続いた時代が非常に長かった。物流の流れが水運から鉄道に移行したことを理解した人々は地域の人たちが中心となり、改めて流山に鉄道を建設し、かれこれ百年経つ。流山がいままた盛んになっている理由として、つくばエクスプレスの開業にあるといえる。モダンな建物が立ち並ぶようになり、都心へも至近となった。が、不思議なことに長らく地味に営業していた流山電鉄沿線だけは、宅地化こそ進んでいるものの、ひっそりと「もう、賑やかなのは飽きた」といわんばかりに、街全体が貝殻を蓋したようにひっそりとしている。ちょっとここが東京至近の都市とは考えにくい。

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近藤勇や土方歳三らが逃れてきたのが、流山駅近くにある酒屋の酒蔵であり、酒屋は今でも健在である。大河ドラマをやっていた影響で、販促グッズ等も売っているが、観光で儲けようという商売っ気のかけらも感じられないところに、この街の不思議さがあるような気がした。「もう商売はほどほどでいいわ」という声が聞こえてきそうであった。

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流山電鉄鰭ヶ崎駅前を降りると、昭和時代の赴きを濃厚に残すパン屋があった。昭和41年の創業のようで、「創業当初にいた人で今生きているのは私だけ」と気さくにお話してくださったのが女主人の〇〇さん。創業当初、一帯は一面の田んぼだったらしく、付近に何もないこともあってか、行列などもできたらしい。今はご子息がパンを作られているそうで、幼児期に商店街にあったパン屋さんを思い出してしまう(昭和50年代の生まれです)のは、私が店の昭和な雰囲気にのみ込まれてしまったからであろうか。

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さて、新選組であるが、この頃、近藤勇は大久保大和という変名を使っていた。それくらいに落剝していたのである。ここで越谷(サイタマーでレイクタウンがある街ですね。かつては宿場町でした)に出頭するように西軍(私は官軍という言葉は使いません)に促されて、近藤は越谷まで赴き、そこで捉えられて護送され、処刑されたと伝えられている。盟友の土方はここで袂を分かち、奥州方面に落ち延び、北海道まで行き、西軍と戦うことになるのだけれど、ここで新選組を象徴する両者が袂を経ったということが非常に劇的で魅力的なのだろう。司馬遼太郎の「燃えよ剣」はその点をうまく描写しており、やはり作家としての技量は半端なかったのであろうと思う。

だが、近藤がなぜにおめおめと越谷まで赴こうとしたのか、未だに不思議だなと思うこともある。近藤はどちらかといえば、慎重なタイプであるとされており、出頭したら今までの所業(あくまで巷の新選組の振る舞いに対する解釈を基盤に述べている)を鑑みると、名誉ある死、すなわち、切腹すら難しいと思わなかったのだろうかと疑問に感じる。それだけ疲弊していたのであろうか。

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という疑問はあるのだが、ともかくも、新選組は芹沢鴨が粛清されて以来、近藤・土方を中心に京を震撼させ、そして、幕府の凋落と並行するようにして、彼らもまた凋落していく。としか、今のところは言えないのだけれど、そんなに悲劇的なのだろうか。歴史に対する解釈はちょくちょく時に大きく変わるし、上述の芹沢鴨も司馬も描いていたように、残酷無道な人間であったというわけではないらしいという解釈が今ではメインになってきている。個人的にも芹沢が住んでいた土地に行って話を聴いたりしたこともあり、贔屓の引き倒しにはなるだろうけれども、死者の口からは歴史は生じえないのだなとの感を大きくした。

流山という街はむろん生きており、むしろ、今は、賑わいを見せているけれども、敗者の側として歴史的に沈黙するほかない立場となった新選組の代表的人物二人の落剝の場は、今も不気味なほどに沈黙した雰囲気を漂わせており、これは決して天気のせいだけではないと思うのだが。

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