奄美大島、田中一村、求道者たち
お盆休みに奄美大島へ行ってきた。台風6号にはやきもきさせられたが、なんとか予定通り訪問できた。海の透明度は100%ではなかったものの、ウミガメと一緒に泳ぐこともできた。
帰ってきて1日。海の美しさ、アダン、濃い緑や赤い植物、ハイビスカス、満天の星星、鳥や虫の鳴き声、島の人のゆるい優しさ、が頭から離れない。心が島から帰って来られない。
私は今、ある試験のために生活を切り詰めていて、今度いつまた愛する奄美に行けるかどうかわからない。それで余計に旅の終わりがつらいのかもしれない。(奄美はあまり観光地っぽくなく、自然に恵まれた神の島。休暇の旅先としてとてもおすすめできます!)
奄美への訪問は確か3回目。今回は田中一村美術館に行けなかったが、帰ってきてから改めて田中一村伝を読み返した。
田中一村は、生前は無名で、近頃になって注目されてきている「日本のゴーギャン」とも言われる孤高の画家。清貧を貫き、孤島で一人、芸術を極めた聖のような人。
たぶんこの↑代表作「アダンの海辺」は教科書で見た記憶があるのではないでしょうか?
一村は南の果ての島、奄美に50代で渡ってきて、あばら家と言っていいような小屋に住み、小さな畑で野菜を育てて自給自足の菜食生活をし、大島袖の染色工として低賃金で働いては絵を描くためのお金を貯め、老いや病と闘いながら孤独に絵を描き続けた。そして70歳を目前にして、その小さな借家で一人倒れて亡くなりました。生前は絵描きとして認められもせず、島の人からは「変人のじいさん」と思われていたらしい。
世間とことごとくうまく行かず、売り絵を良しとせず、人からの援助を受け取らず、画壇、画商とも絶縁し、ついには兄弟や支援者のいた千葉を離れ、南海の孤島の自然にモチーフを求めて放浪の旅へ出る……。
その不遇さは、自分で選び取ったものだが、そういう生き方しかできなかった彼の純粋さ、人に阿った絵を書けない不器用さ、まっすぐさは、この本を読みながら胸が痛かった。
20代前半の私は、一村の絵を見て何かを感じて、一筆一筆に才能の迸りを見て、この画家と、画家が描いた奄美の自然が大好きになった。でもそれが自分に似たものを無意識に選び取っていたことに気が付かなかった。私はゴッホが好きだ。鈴木いづみが好きだ。石川啄木、ラディゲも。皆、あまりに鋭すぎ、純粋すぎ、早く逝った者たちだ。
一気に命を燃やし尽くして頂点に達する緊張感、一瞬の迸り。そういったものに美しさを感じるからかもしれない。できるならば、そんなふうに生きたい。一村の絵を生で観れば、そういった気迫が直に迫ってくる。けれどそんな生き方は、死と隣り合わせだ。魂と違って肉体は、あまりに重いものだ。
でも私は長生きするだろう。しなくてはならない。私は早逝した彼らほど鮮明な人間ではないからだ。反骨精神を持ち、体制に反発しがちな傾向があるにしても、なんとか世の中での居場所を見つけ、自分と社会の折り合いをつけ、安心して生きていきたいと思っているからだ。
私は昔から求道的な生き方に惹かれるところがあった。たのしく、充実していた20代前半の日々にも、あるバレリーナの「自分のすべてを何かひとつのことに捧げる、そんな生き方に憧れたの」という記事に引きつけられたのを覚えているし、たのしい一方、どこかで、物足りない気持ちが消えなかった。
近頃は、「レベッカ」で有名な作家、デュ・モーリアの「モンテ・ヴェリタ(真実の山)」を何度も読み返した。短編に傑作の多いデュ・モーリアだが、この作品は神品と言っていい出来だ。アンナという不思議な魅力のある女性が、モンテ・ヴェリタという山にある修道院(のようなところ)へ惹かれて行ってしまう。彼女はもともと求道的な一面があったが、モンテ・ヴェリタへ呼ばれた者は、二度と俗世へは帰って来られない。その代わり永遠の若さを得るという。
もし一村が「モンテ・ヴェリタ」を読んでいたら、なんと言っただろう? 一村とデュ・モーリアは同じ時代を生きていたけれど、彼女の作品は、当時まだ日本に紹介されていなかったかもしれない。
(デュ・モーリアといえば「レベッカ」ばかりが評価されているようだが、日本で彼女の知名度は必ずしも高くなく、他に優れた作品を多く残している。それについては以下の記事によくまとまっているので、ぜひこちらも読んでみてください)
何年か前、私が渾身の力を込めて書いた小説も、ある方法で人ならぬ境地へ至ろうとする女性の試みを書いたものだった。けれど、現実の人間ならば、肉体を脱ぎ捨てることはできず、パンのために働かねばならず、病気や家族の死や災害や、別れ、苦痛、思い通りにいかない仕事、出来事、に見舞われ続ける。
奄美大島は、中央から遠く離れているために、ある程度の自由な雰囲気を持っている。でも旅で訪れた私にはわからない苦労が、現地には当然にあるのだし、数日間滞在するだけなら楽園だろうが、それは私が「お客さん」だからにすぎない。
現実世界にシャングリラは存在しない。私たちはいつもこの自分の生活に帰って来なければならないし、生活することから、死ぬまで解放されることはない。けれど、いつかはもう少し楽に、飛翔するように、毎日を過ごせるようになりたいと思う。
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