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小説同人誌『少年についての独白』サンプル
少年に、出会ってしまった。
上手くいかない人生を抱え途方に暮れていた津野田温は、ある最悪な朝、一人の少年と出会う。現実逃避から少年との交流を重ねた温は、やがて、後戻りのできないラインを踏み越えてしまい━━。
本文サンプル
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※実際の本文には段落ごとの空行はありません。
津乃田温は不気味な男だった。
第一印象はむしろ逆で、とりわけ特徴のない顔立ちの、普通の話し方をする普通の男だった。平均よりは不幸で、かと言って波乱万丈と表現するほどでもない、ありふれた生い立ちの男だった。
もちろん、彼が起こした事件は稀に見る凶悪犯罪で、彼の人生も彼自身も到底平凡とは言い難いのだが、職業柄そういった人間に接することに慣れている仲谷にとっては、さほど心を乱されるものではなかった。
けれど、何か……。
何かが、仲谷の中に慄れを生じさせていた。
〈一〉
彼に出会ったのは六年前、俺が専門学校へ入学した年の、ある最悪な朝のことでした。
ええ、そうです、よく調べていますね。そのとき俺は十九ではなく、二十歳でした。高校を卒業して一年後です。
前の年はフリーターでした。小学生の頃に養護施設に預けられて、高校卒業までその施設にいたものですから、頼れる親類もいなくて。一年間バイト漬けになって、ようやく入学金と前期の授業料を準備できたんです。
彼に声をかけられたとき、俺の気分はどん底でした。仲良くしていた女の子の部屋を真夜中に追い出されて、一晩かけてようやく自分のアパートの前まで戻ったと思ったら、鍵を女の子のところに忘れてきたことに気がついたんです。履き潰したスニーカーで何時間も歩いた足はマメができていたし、長い爪で引っ掻かれた頬の傷には風が滲みて泣けました。
比喩でなく、本当に泣いたんですよ。とっくに日の上った明るい朝の街で、俺はぐずぐずと泣きながら来た道を戻りました。部屋の前にいてもどうにもならないから、近くの公園を目指したんです。とにかくみじめで、疲れ切った気分でした。
街の人は大人のくせに泣いている不審な人物を、まるで見えないみたいに無視して通り過ぎました。足早に駅へ向かう背広姿の中年男性も、ウォーキング中の老夫婦も、だれもが俺に気がつかないふりをする。ひとりだけ、犬を連れた若い女のひとがうっかり俺と目を合わせてしまったけれど、やっぱり何も言わず、長く伸びたリードを引っ張ってそそくさと離れていきました。
公園のベンチに座り込むと、もう一生立てないと思うくらいの疲労が押し寄せました。
『私の事好きでいてくれてるんだと思ってた』
財布も鍵も置いてきた中、唯一持ち出せたスマートフォンには、りさからのメッセージが入っていました。ええ、そう、俺を追い出した女の子です。専門学校の同級生で、入学してすぐ仲良くなりました。ひとり暮らしで寂しがり屋で、よく、俺のバイト上がりの時間に店の裏口までやってきて、「今日うちに来てくれる?」と上目遣いに俺を見上げました。
その日もおんなじで、追い出されたのはシャワーを浴びて部屋に戻った直後です。りさは俺のスマホに表示された新着メッセージを見て怒っていました。別の女の子からのメッセージです。俺がその子とも寝ていることを知ったりさは、俺を部屋から追い出しました。相手がりさの友達だったのも、余計彼女を怒らせました。
りさともりさの友人とも、付き合っているつもりはありませんでした。それが良くないことなのも、知ったら相手が傷つくこともわかっていました。でもだめなんです。昔から、断ることが苦手でした。
そう、断れなかっただけなんです。
断れなくて、望まれるままに関係を持って。何でもそうでした。バイトのシフトも言われるとおりに詰めてしまって、ずっとへとへとで。なのに飲みの誘いも断れないからいつでも金欠。家賃の滞納もよくやりました。あれだけ頑張って入った専門学校の課題も溜め込むばかりで、本当、何もかもが上手くいっていなかった。
彼に会ったのは、そんなときです。
彼は、自分の膝の上に突っ伏していた俺を、具合が悪いものと思って声をかけてきました。「大丈夫ですか」って。ええ、そう、最近の子にしてはずいぶん不用心だなと、俺も思いました。最もそれはずいぶんあとになって思い返したときの話で、そのときの俺は、ただただぽかんとしていました。
目の前の少年の姿に、心のすべてを持っていかれていたんです。
服の上からでもよく分かる、すらりと伸びたしなやかな体躯が真っ先に目に入りました。第一ボタンを外した奥の白い喉は彼の澄んだ高い声にふさわしく、まだ二次性徴の片鱗も見られませんでした。歯並びの良さが見て取れる顎は、彼が成長のはざま、今この一時だけこの姿でここに留まっているのだということを知らしめる、シャープさと柔らかさの絶妙に混じり合ったラインを描いていました。
小さな唇は性別の境を曖昧に溶かすように愛らしく、淡く色づく頬は、収穫間際の瑞々しい桃のようでした。
色素の薄い髪は朝の光に透け、細くつり上がった眉は繊細さと意志の強さを同時に宿し、俺を見下ろす大きな瞳は、まっさらな新しい一日を閉じ込め、一心に輝いているのです。
彼はそのとき中学一年生でしたが、同じ年の子と比べるとずいぶん背が高く、それでも、骨格は大人のそれとはまるで違う、不安定で華奢なつくりをしていました。
私は養護施設出身でしたから、少し前まで子供たちに囲まれて暮らしていました。小学生も、中学生も、いつもまわりにいて、でも、彼はその子らとは全く違う生き物でした。
思うに、『少年』というのは成長の過程で誰しもが成れるわけではなく、ほかとは違う特別な存在に、ほんの一瞬だけ宿る概念なのです。
黙ったままの俺に、彼は困った顔で瞬きをし、それから、思いついたように腰のポケットからハンカチを取り出しました。
俺は一瞬固まって、慌ててハンカチを受け取りました。ハンカチには丁寧にアイロンがかけられていて、それから、少年の体温が移って、ほんのり温かくなっていました。
俺は、ああ、どうせならティッシュが良かったなあなんて軽く現実逃避しながら、鼻をすすって目元を拭いました。さすがに人に借りたハンカチで鼻をかむわけにはいかないじゃないですか。どうして人って、泣くと鼻水が出るんですかね。
その間、少年は微動だにせずじっと俺を見つめていました。俺はだんだん冷静になってきて、少年の行動に不可解さを覚えました。泣いている大人がそんなに珍しいものか、いや、珍しいに決まってますけど、そんなに凝視するものでもないじゃないですか。
俺の困惑には気がつかなかったようで、彼は「隣にかけていいですか」と言ってきました。少年はベンチの端に腰掛けた俺のすぐ横に腰を下ろしました。太ももに彼の尖った膝が当たりました。ベンチの反対側は広々と空いていました。
「よく朝にすれ違っていたの、覚えていませんか」
少年の言葉に、俺は首を傾げました。
彼の話によると、少年が犬の散歩をするとき、度々俺とすれ違っていたというのです。
たしかに、少年の指差す、一列に植えられた落葉樹の向こうにあるのはアパートから駅までの通り道で、つい先程も歩いてきたところでした。夜勤明けや朝まで飲みに付き合ったあとの時間が少年の行動時間と重なっていてもおかしくありません。ですが、俺には欠片も記憶がありませんでした。瞼を刺すしらじらとした朝の光に、疲れ切った俺の視線は、いつでも地面に向かってましたから。
少年の犬はつい最近死んでしまったとのことでした。それを口にした途端、少年の目のなかで、とぷりと大きく水が揺れました。
犬は、とてもきれいで、大人しい子だったそうです。黒い毛がツヤツヤしていて、大きくて、抱きしめるとあたたかいのだと語る少年の様子は、まるで俺に言い聞かせるようでした。
少年が「ハル」と呼びかけてくるものだから、俺は驚きました。加えて、少年の手が伸びてきて、俺のこめかみに垂れる髪を掬ったので、もっと驚きました。
「なんで俺の名前を知ってるの」と尋ねる俺の声と、彼の発した次の言葉が被りました。
彼の言葉はこうです。「ハルの毛も、こんなふうに真っ黒で……」そうして二人で、「え?」と言い合いました。
俺は誤解に気づきました。少年が口にしたのは、今日はじめて会話をした、自分の名前ではなかったのです。
『ハル』は犬の名前だと、ほうけた顔で少年が呟きました。と思うと、次の瞬間には弾けるように立ち上がって、驚く間もなく、俺の視界の一切は少年の着る白シャツの生地にふさがれました。
本当に? 本当にハル? と、冷たい朝の空気をそっと爪弾くような、小さく震える声が頭上から降りそそぎました。少年の腕が、俺の頭を包んでいました。
呆気にとられながら、どうやら少年の飼い犬が、自分と同じ名前だったらしいことを俺は理解しました。
泣いている気配に動くこともできず、俺は黙って目を閉じました。
頬に触れる柔らかなシャツの感触、その奥からじわりと少年の体温が伝わってきて、みるみるうちに、俺の思考が溶けていきました。
少年が犬の名前を呼びました。時折、俺の髪に水滴が落下して、毛先へと伝っていく気配もしました。
ハル、ハル、……。
犬の代わりか、と思いつつ、俺はそのとき、ひどく久しぶりに安堵を覚えた気がしました。(続)
販売情報
値段・ページ数・判型
400円(イベント価格)/28ページ/文庫判
購入方法
年2回の文学フリマ東京を中心に頒布。
販売サークル:七つ森舎(ななつもりしゃ)
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