きみの赤色
B7のエスカレーターをのぼる。綺麗だった、としか言いようがない。いちばん叶えたくて、いちばん叶ってほしくないことだった。寒さが明け始めた頃、夕方の真風が体温をちょうど下げてくれる。当たり前に前に立ったし、後ろを歩いた。地図アプリを開かなくて済むから、携帯の電池なんか要らなかった。何の話をしていたんだろう。気づいた時には夕日が髪の毛を綺麗に茶色に染めて、わたしの巻いてあげた髪が可愛くてつい手を伸ばしていたし、あの頃にはすでに白シャツが好きだった。あの出口を、わたしはいまだに避けている。エスカレーターをのぼるだけで、叶えてしまった現実を、でもなにかを失ってしまったあの日を、刹那的に見つめてしまうから。
いまは何と戦っているの?と彼は言う。そんなに戦闘態勢に見える?と笑い返すと、だっていつも何かをまっすぐ見つめているからさ、と目の前の焼き鳥をペロリと平らげた。大衆居酒屋で残りのひとつを取り合っていたのに、ひとりにひとつずつ配られるところになんか来てしまって、恥ずかしくなった。遠慮しないんだから、と笑えなくなったこの状況に、大人になってしまったことを知らされる。
何が好きかじゃなくて、どうして好きかを話せるのがよかった。好きなものなんて、別にいっしょじゃなくていいんだよ。なにがすきで、どうして好きか。そうやって好きを語る姿そのものが魅力のすべてだった。なんとかなるよ、と魔法をかけたくて言い続けたし、きみは強いと魔法をかけてくれた。子どもと大人の境目でいろんな色を纏ったままで、いろんなわがままを言えたことは、きっと価値のあることなのだと思う。
久しぶり、と口を開いた彼はもうわたしの知っている彼ではなかったし、悲しい気持ちよりも安心の方が大きかった。分かってたよ、きみが選ぶものはマイノリティにはならないこと。素でかっこいいものを選ぶことも、手に入れたいものは絶対に手に入れてしまうことも。あの日きみが好きだと言ったものが今は当たり前になっていて、そのセンスにわたしは圧倒され続けることも。広くて白く、高い天井の下で彼のみた景色を眺めながら、わたしは旅をすることができるよ。
お酒の弱いわたしにワインを勧めてくれたきみに、ひとつだけ言えてないことがある。ワインだけは、飲めるようになったよ。夜な夜な赤が日常に溶けていく瞬間を眺めて綺麗だと思える、そんな自分になったことを、たまに知って欲しいなと思ったりするよ。これからも大きく羽ばたいていて、きみは強い。