たとえ私の日常が、あなたにとっての非日常でも
もし私たちが普通の恋人同士だったら、今この瞬間って、きっと人生で一番幸せな時間なんだろうな。
日曜日の午後、ふらりと入った食器のセレクトショップで、私はぼんやりそんなことを思いながら彼の手元を見ていた。
白を基調とした、明るく洗練された空間。柔らかい日差しが、窓ガラス越しにキラキラ光っている。
自由が丘という街の性質なのか、店内には、品のある服装の30代くらいのカップルや若い夫婦が多く、程よく賑わっていた。
「気になるお店があったら言ってね。」
彼にそう言われて私が咄嗟に「ここがいい」と口にしたのは、和風の食器が並んだ、こじんまりとしたお店だった。
私はもともと食器を眺めるのが好きだったし、歳の離れた彼と一緒に見て楽しめるものってなんだろう、と考えていた時に視界に飛び込んできたこのお店は、「2人が共通で楽しめるお店」として、ちょうどよかったのだ。
「これ、かわいいね。」
「俺はこれが好きだなあ。」
そんな風に言い合いながら店内を回っていると、私はつい、ふたりの関係性なんて忘れてしまって、まるでこれから一緒に暮らすために食器を探しているような、そんな浮かれた気分にすらなる。
私たちは今、周りからどう見えているんだろう。
普通の恋人同士に見えていたりするんだろうか。
そんなことを勝手に思いながら、緩んだ頬に気づかれないように、目の前にあった湯呑みを手に取る。
「これで日本酒飲んだら、おいしいだろうねえ。」
「家飲みが、楽しくなりそうだよね。」
お酒が好きな者同士、やっぱり目がいく物も、考えていることも似ているようだ。やっぱり少し、浮き足立ってしまう自分がいる。
もし私たちが一緒に暮らすことになったら、今のように毎週出かけることも、少なくなるんだろうな。
彼はインドア派だし、たぶん毎日テレビでも見ながら、私が作ったちょっとしたおつまみを片手に、ゆっくりお酒でも飲むんだろう。そんな日常が、目に浮かぶ。
そして、私はそんな彼の「おいしいじゃん」という少し上から目線の褒め言葉を聞きたいがために、彼に内緒で料理の特訓をするんだろう。
そんな「普通の幸せな日常」に想いを馳せていた私は、彼の一言で一気に現実へと引き戻された。
「あ、これいいな。」
そう言って彼は、目線より少し下に置いてあったそれを、少しかがんで手に取る。
彼の目線の先にあったのは、持ち手が赤と黒で、金箔のような模様が細かく入った、和風のペアグラスだった。
「あ、たしかに。お正月っぽくて、いいね。」
反射的にそう返したものの、グラスを手に取りながら、真剣な表情でそれを見つめている彼の横顔の意味が分かってしまい、呼吸が急に苦しくなった。
このグラスを彼と一緒に使うのは、私じゃない。
今、彼が思い浮かべている「日常」の中にいるのは、私じゃない。
彼にとっての日常は、私じゃなくて、顔も知らない「あの人」なんだ。
そんな当たり前の現実を急に突きつけられて、ふいに切なさが視界を覆って世界がぼやける。
このお店を選んだ数十分前の自分を、心の中で少し恨んだ。
「年末年始、東京にいるの?もし予定ないんだったら、会おうよ。俺も今年はこっちにいるから。」
さっきのグラスは戻したようで、今度は素麺でも入りそうな、涼しげなガラスの器を手に取り聞いてくる。
「家にいなくていいの?」
一瞬口にしかけた言葉をぐっと飲み込んで、「そうだね、もし暇だったらね」と、軽い返事をする。
彼の「全体の時間」で考えたら、きっと彼女と一緒に過ごす時間の方が長いだろう。私にだって、それは分かっている。
彼女が、日常。私は、非日常。
だけど、ここ数ヶ月間毎週会っているのも、年末年始に会うのも私。
ここ最近は会う頻度も増えているし、2日に1回は連絡を取り合っている。
期待しているわけじゃない。
だけど単純に、わからなくなる。
「日常」と「非日常」の境目は、一体どこにあるんだろう。
「あ〜、お腹空いてきた。今日はなに食べようね?寒いから、鍋とかいいかな。」
無邪気に笑いかけてくる彼はあまりにも「いつもの彼」すぎて、やっぱり私には、これが「非日常」だと思えない。
彼はもう、少なくとも私にとっては、日常の中の一部だ。
だから私は、この会話だってあくまでも何気ない日常の一コマなんだという顔をして、答える。
「鍋かあ、いいね。おでんも捨てがたいなあ。」
そして、彼もそれに応じる。私にとっての「日常」の、彼の表情と声で。
「この前の、おいしかったもんね。よし、じゃあ、今日はおでんにするか。」
嬉々として歩き出す彼の、丸みを帯びた背中を見つめながら、ふと思う。
日常でも、非日常でもいい。
どっちだっていいから、この風景を1日でも長く、見ていたいと思う。
今はただ、それだけだ。
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