「誰かに認められる」を諦めきれなくたっていいじゃないか
「自分には価値なんてない」と思うことが、定期的にある。正確には、誰かにそう言いたくなることが。
それはたぶん、「そんなことないよ」と相手に否定してほしいからだ。
自分には価値があるんだ、このままで大丈夫なんだ。
そんな風に安心したくて、身近な人に対して、そう口をすべらせてしまうことが、よくある。
最近は、「自分には価値がない」と口にしてしまうことは、以前よりもぐんと減った。
けれど、その代わり気になることがある。
身近な誰かが褒められたり評価されたりしているのを目の当たりにすると、心が大きくざわついてしまうのだ。
心の中に大きな波が押し寄せてきて、目の前がさーっと真っ白になって、おまけに呼吸まで苦しくなってくる。
「誰かが褒められていること、評価されていること」と、「自分が褒められないこと、評価されないこと」は、頭で考えたら関係のない話だということは、わかっている。
わかってはいるけれど、心はどうしても過剰に反応してしまう。
同意しなきゃ、いいところを素直に吸収しなきゃと冷静な頭では思っていても、心はまるで底なし沼に落ちていくように、ずぶずぶと沈んでいく。
そうなったらもう、その後はどんなことがあっても、悲観的な気持ちで1日を過ごすことになる。
心のセンサーが、後ろ向きな感情だけを吸収して、どんどん膨らんでいってしまうのだ。
これを言葉にしてしまうのは、とても抵抗がある。だけど、あえてここではちゃんと書くことにする。
わたしは、好きな人や尊敬している人が、誰かを賞賛したり、尊敬しているという話を聞くのが、ほんとうはとても苦手だ。
聞いていると、どうしても強い恐怖心や不安感を抱く。
「こんなところがすごい」という話を聞いている時間は、じわじわと首を絞められているような感覚になる。
聞き続けていると、自分の魂がどんどんすり減っていって、どこかへ消えてなくなってしまいそうな気持ちになる。
もはや消えてなくなりたい、とすら思う。
自分とその人は関係がないのに、自分にベクトルを向けて、
「自分は彼女みたいに価値がないのに、どうしてここにいるのだろう……」
なんて思ってしまう。
そして、
「もしかすると、このままじゃ必要とされなくなってしまうかもしれない……!」
という危機感が次第に膨らんでくる。
だからこそ、「その人のそばにいるために、必要とされ続けるために、さらに努力をする」という道を、これまで何度も選んできたのだ。
振り返ってみると、幼い頃からこういう恐怖に襲われることは、何度かあった。
けれどここ1〜2年は、その頻度が格段に増えている。
いまの職場に転職してから、そう感じる頻度が増えたのだ。
いまの職場は、人も環境も仕事内容も、自分にとっては充分すぎるくらいのもので、「転職してよかった」と心から思っている。
この会社が好きだと本心から言っているし、親しい友人にも、ついついチームへの想いや、仕事の楽しさについて話してしまう。それほどこの環境が、大切だ。
だからこそ、苦しいのかもしれない。
自分が好きな場所で、輝きたいと思っている場所で、「自分はこの場所、この人たちにとって、価値がある」と、心から実感できていないことが。
たぶん、「居場所の数」も少なからず関係しているのだろうなあと思う。
いままで、部活でもサークルでも学校でも、自分の生活の大部分を占めている場所で、自分が「思ったよりも必要とされていない」と感じたら、他の場所を探せばよかった。
その場所で輝けなくても、評価されなくても、
「この人たちと自分は、相性が合わないんだなあ」
「ここには自分のよさを分かってくれる人がいないから、他の場所に行こう」
と割り切って、第二、第三の居場所をつくっていった。
そうすることで、わたしは自分の心の平穏と尊厳を保ち、自分を責めずに前向きに生きることができていた。
ここじゃないなら、他の場所へ。
この人じゃないなら、別の人へ。
そうやって、自分を評価してくれる人、必要としてくれる場所を、常にいくつか持っていた。
日々の大半を占める場所でどんなに必要とされなくても、認められなくても、生きてこられたのは、そういう心の保ち方をしていたからなのだろうなと思う。
その頃と比べて今の環境が違っているのは、自分が「この場所で」輝きたい、認められたいと思っているという点だ。
「他の居場所」をつくることは、簡単だ。
だけど今回は、今までのように、そうやって目を逸らしたくない。諦めたくない。
「どうしても、ここで輝きたい」と、いつしか強く思うようになっていた。
「自分はこの場所、この人たちにとって、価値がある」と心から実感できるかどうかは、もしかすると自分自身の解釈や認識の問題なのかもしれない、と思うこともある。
だけど結局わたしは、誰かの評価を求めているのだろうなあと、結論は何度もそこに行き着く。
わかりやすく認められる、評価されるということが、たぶんいまの自分には必要なのだ。
本当だったら、「自分の価値は、自分で決める」と言えるのが一番いいのだろうし、「自分の軸で、やりたいことをやる」人を見ると、憧れも抱く。
だけどまずは、「誰かの軸で、一度、評価されてみたい」と思う自分がいる。そうじゃないと、結局はここへ、何度も戻ってきてしまうような気がするのだ。
一度誰かの軸で評価されたら、それで満足するのか?
その先をさらに追い求めて、苦しくなるんじゃないだろうか?
そんな疑問も頭を過ぎる。
「自分で自分を価値があると信じられるようになるために、誰かの軸で評価されたい」
というのは、なんだか矛盾しているような気もする。
だけど、これまでの人生でずっと「自分の軸」を言い訳に逃げてきた分、目を逸らしてきた分、「誰かの軸」で、評価されてみたい。価値を認められてみたい。
そんな感情が自分の中に生まれてきてしまった以上、それを実現するまでは、一生この感情に苦しめられる気がしているのだ。
だからわたしは、それがこの場所で求められていることなら、自分が苦手なこと、やっていて苦しいと感じることも、できるところまではやってみようと決めた。
実際、この2ヶ月間は苦しいことだらけで、
「どうして自分は、こんなに何もできないんだろう…」
と苦しくなって仕事中に涙が止まらなくなる時も、
「いま自分がここで躓いている間にも、他の人はもっと成長しているかもしれない……」
という不安で眠れなくなる夜も、何度もあった。
だけどそれも、逃げたり諦めたりすることによる後ろめたさと比べたら、大したことじゃなかった。
いま諦めてしまったら、わたしはこの先ずっと後悔する。
なんだかそんな予感がしているのだ。
「この場所で、自分の価値を認められたい」
「それによって、自分自身で価値を実感したい」
これらの気持ちの根っこには、焦りや不安、恐怖といった後ろ向きな感情がぐつぐつと煮えたぎっている。
そんな感情が努力の源泉になっているのは、あまり健全ではないのかもしれない。
「こんな未来を実現したい!」
「この人たちのために、頑張りたい!」
と前向きなことを言えたほうが、本当はいいのかもしれない。
だけど、そんな感情があるからこそ、わたしは誰よりも自分を、人生を諦めないという事実もある。
結局わたしには、「自分を諦めない」ことくらいしか、誰にも負けないと言えるようなことはないのだから。だったらせめてそれだけは、貫き通したいと思うのだ。
ひとまずはここで、できるところまで頑張ってみる。
きっとこの先、何度も泣いたり躓いたりするのだろうけど。
誰かに認められても、そうじゃなくても。
自分の価値を実感できても、できなくても。
それでも自分には価値があるのだということだけは言い聞かせながら、明日も、明後日も、歩みを止めないでいたい。
そうやって歩き続けた先で、どこかに辿り着けるのなら。「誰かに認められたい」という気持ちを捨てずに生きてみても、いいんじゃないだろうか。
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