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午前零時の安全地帯


そこは、今のわたしにとって、

この世界で最後の安全地帯地だった。


いつからだろう。

その人の家で、ただ何をするでもなく、

だらだらと時間の流れを身体で受け流す日々。

社会人になりたてのその人の部屋は狭くて、

小さなテーブルとベッドしかない、

とても簡素な空間だった。

今までに見たことのあるどんな人の部屋よりも、 

物が少なく、空白の多い部屋だった。

わたしの心の中みたい。

それが、部屋に対して最初に抱いた印象だった。


彼の部屋は狭いから、座る場所がなくて、

必然的にベッドに腰掛けることになる。

彼は、いつもその横に座った。

けれど、その距離はなぜか毎回、

人ふたり分くらいあった。

自分の家なのに、すごく申し訳なさそうに

ベッドの隅に座る彼のすんとした横顔が、

なんだかとても好きだった。


狭い部屋に、ふたりきり。

そんな状況下で指一本触れてこないことも、

全く恋愛の話にならないことも、

この不自然なくらいに空いた距離も、

なにもかも、おかしかった。

おかしかったけれど、今のわたしには、

この距離感が、ちょうどよかった。

むしろ、この距離感じゃないと、だめだった。

安心、とは、このことを言うんだなあと、

日曜日の夕方に流れるテレビ番組を見ながら、

ひとりでしみじみと思える環境が心地よかった。


こんな狭い空間にふたりでいるのに、

なにも起こらない。警戒心すら湧いてこない。

それは今のわたしにとって、

この上なくやさしい事実だった。

もう、これ以上傷つくのは、嫌だった。

信じられない人が増えていくのが、怖かった。


わたしには、いわゆる「男の人を見る目」が

なかった。

素敵だなと思って好きになっても、

結局、毎回失敗しては傷ついた。

だから、気づいた時には、すっかり

「男の人」が信じられなくなっていた。

「でも、悪い人じゃないんだよ」

わたしの言葉に、「悪い人なんてこの世に

そうそういないよ」と呆れたように言う、

友人の顔が未だに忘れられない。

わたしの何が悪いんだろう。

どうしたらいいんだろう。

何もわからなかった。

そして、好きになり、傷つく、ということを

性懲りもなく、延々と繰り返していた。


彼がわたしに興味がないのかと言えば、

それは少しだけ違う気がした。

どちらかというと、彼はわたしに好意がある。

そんな空気は前から薄々感じ取っていた。

ただ、絶対に、彼からは動かない。動けない。

卑怯だとはわかっていたけれど、

わたしはその事実を知りながら、

その状況を利用していた。

その安心感に、すっかり甘えきっていた。

でも、仕方なかった。

失いたくなかった。

ここはわたしにとって、

この世で最後の安全地帯だったから。


「そろそろ出ようか」

もう、何度目かの彼の家からの出発。

彼の部屋からはいつも、日付が変わる前には

出ることになっていた。

それはなんとなく、お互いの暗黙の了解だった。

そして必ず、駅まで歩いて送ってくれた。

そこそこの距離があるのにもかかわらず。


彼がテレビを消す。静けさがくる。

その静けさすらも、なんだか神聖な空気を

湛えているように思えておかしかった。

彼が先にドアを開け、外に出る。

靴を履いている間に、荷物を持ってくれる。

その仕草があまりにも自然で、

ふたりの関係性をふと忘れてしまいそうになる。

彼は、どこまでも、優しかった。


鍵を締める。

しんとした暗闇に、ガチャリ、と軽い音が響く。

同棲ってこんな感じなのかなあ。

ふと、そんな想いが過ぎる。

もちろん、他人と一緒に住む、ということが、

こんな生ぬるいものじゃないなんてことは、

嫌という程知っていたけれど。

それでも、この時だけは、なぜか少しだけ、

心があたたかくなった。

ほんとうに、馬鹿みたいな空想だったけれど。


「あ、雨だね」

ふたりで入っても、充分すぎるくらい

大きなビニール傘。

傘は持っていたけれど、わたしは当たり前の

ように、その大きな傘に入る。

その時も、彼はほどよく距離を空ける。

傘を持つ手は、こちらに限りなく近づけて

くれるのに。

本当に優しい。優しすぎて、腹が立った。

わたしは、本当に身勝手だった。

でも、その身勝手ささえも、なんてことなく

受け入れてくれる彼の人間の大きさに、

今は、心の底から救われていた。


「中途半端な雨だなあ」

珍しく、彼がぼやく。

しとしとと、降っているのか止んでいるのか

わからない雨は、今のわたしの心をありありと

映し出しているようだった。

「今年の梅雨は長いらしいよ」

わたしの言葉に、「え〜」と不満そうに

口を尖らす。

その表情に一瞬だけ幼さが垣間見えて、

なぜか心臓がどきりとした。


どんなに長くても、毎年梅雨はちゃんと明ける。

そのことが、わたしの心を少しだけ軽くした。

もう少しで、ここから抜け出せる気がした。

まだいつになるか、正確にはわからない

けれど。

それまでは、心置きなく浸っておこう。

そう思った。


わたしだけの、限りなくやさしい、

この安全地帯に。

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