壊れゆく世界、明け方の夢堕ち
ああ、またやってしまった。
タクシーから降りた後すぐ頭に浮かんだのは、若くて愚かな、懐かしいあの頃の自分だった。
あの頃の自分が、久しぶりに、戻ってきてしまったのだ。この数時間で。
ようやく吹っ切れた昔の恋人から、いきなり復縁を持ちかけられた時みたいな、そんな気分だった。
戻ってくるのは今じゃない、そう言いたかった。
すうっと清らかな水色が空に溶け出した、明け方の空気がひんやりと冷たく心地いい。
いつもはこの、やけに爽やかな明け方の空を見ては深い後悔にその場で立ち竦んでしまうのに、今は不思議と心まで清々しかった。
けれど身体は真逆で、ありとあらゆる身体の部分が静かに声をあげているのが聞こえた。この数時間、無視していてごめんね、と心の中で自分の身体に素直に謝る。
まだ火照ったままで、足元が覚束ない。気分は悪くないけれど、頭の上の方にじわじわと痛みが広がったり、縮まったりしている。
ひとりでは広すぎる大きな黒いタクシーが、すごい速さで一日の始まりから逃げるように走り去ってゆく。それを見送りながら、ぼんやり思った。
昨日の夜、彼と会うまでは、こんなことになるなんて1ミリも想像していなかったのに。
すっかり頭が混乱していた。
ご飯を食べて、一杯だけお酒を飲んで帰るつもりだった。
まだ出会ったばかりだったし、いつもは複数人で会うことが多かったから、ふたりで会うのは今回がはじめてだった。
わたしたちがいるところは、恋愛とはまったく縁のない場所だと完全に信じ切っていた。
…だけど。
今となっては、すでに会う前からもう未来は決まっていたのかもしれない、とも思う。
「好きになってしまう人の特徴」なんて話をしていたのが、まるでそれを自分から予告していたみたいで、今すぐ世界を巻き戻して現実をリセットしたい。
「好きになってしまう人は、そこに理由がないから困る。」
そう言ったわたしに、「俺は、好きな人だったらちゃんと言語化できるけどなあ」とのんびりした口調で答える彼がなんだか急にすごく大人にみえて、ふと寂しさを覚えた。
当たり前にそこに横たわっているはずの、彼の歴史に想いを馳せると、眩しくて思わず目を瞑りたくなる。
わたしはまだ子供だから、「理由のない好き」に夢中になって、弄ばれているだけなのかもしれない。
そのときは、たしかにそう思っていた。
水色の空に、少しずつ白い光が混ざりはじめる。
遠くでカラスの間延びした鳴き声が聞こえる。
あれは、なんだったんだろう。
わたしのみていた「現実」が、どんどん壊れていった数時間前。
もう期待するほど純粋ではなくなったし、傷ついたり落ち込んだり、引きずったりもしなくなった。
だけどやっぱりどこかで、わたしは何かを信じていたかったのかもしれない。
もう壊す側にきてしまった自分を棚に上げて、綺麗なものを、探していたかったのかもしれない。
彼が壊したんじゃない。
誰もがいずれどこかのタイミングで、誰かの現実を壊すのだ。
わたしが愚かだったんじゃない。
誰もがきっと、一滴の甘い毒を口にすること、人に与えることがあるのだ。
それは意識的にかもしれないし、無意識かもしれない。
言い訳とか救いの言葉とかそんなものじゃなくて、ごく自然に、そんな考えがまっすぐに降りてきた。そして、お腹の底の方ですっと消えていった。
じんじんと熱を帯びる身体を引きずって、ようやく柔らかな布団に潜り込む。
今はまだ朝の強い光が入ってこないよう、紫色のカーテンをしっかり引いて。
目を瞑ると舌にびりびりとした鈍い刺激を感じて、彼の吸っていた煙草の煙を思い出す。
きっとわたしは繰り返し、浅くて甘い夢に堕ちる。
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