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それでも書き続けるのは、たぶん生きていたいから。


半年前に恋人ができてから、文章を書く機会がぐんと減った。

これには色々理由があるのだけど、いちばんは「書く必要がなくなった」というのが大きい。

昔、noteを始めたばかりの頃にも書いたことがあるのだけれど、わたしにとって「文章を書くこと」とは、呼吸のようなものだ。

自分の中に生まれた感情や、小さな心の動き。日々を過ごす中で抱いた、もやもやした感情、まだ形にはならない思考のかけら。

親身に話を聞いてくれる人ができてからというもの、そういったふわふわした感情や思考は、生まれた瞬間に自分の身体の外側に出ていくようになった。

それによってわたしは、自分ひとりで何かを考え続けたり、自分の中にしばらく留めておいて悩んだりする、ということがほとんどなくなった。




慌ただしく駆け抜けてきた2021年、それはとてもありがたいことだった。

立ち止まってくよくよ悩んでいる暇なんてなかったし、彼が話を定期的に聞いてくれたから、わたしは物理的に「ひとりの時間」が取れなくても、ストレが溜まることなくここまでやってこれた。

けれど新しい年になって、久しぶりに空白の多い日々を過ごしていたら、なんとなく自分が心のどこかで「このまでいいのだろうか」と思っていたことを、ふと思い出した。

いまは彼がいることで、文章を書かなくても呼吸ができている。話を聞いてもらうことで、わたしのもやもやした感情は、重く暗く深刻になる前に、身体の外に出されて、そのままその場でしゅわしゅわと消えていってしまう。

心の健康のことを考えたら、それは「いいこと」なのかもしれない。

だけどなんとなく、そのことに寂しさというか不安というか違和感というか、心に何かがつっかえているような感覚が拭えなかった。




たぶんわたしは、文章を残すことで、自分が生きていること、生きてきたことを確かめていたいのだと思う。

わたしにとって「感情」は、あまりにも「生きていること」そのものとの結びつきが強いから。

生まれた感情が形もないまま、誰かに向かって言葉として発せられた瞬間に、なんとなく心が軽くなり、その場で消えてしまうこと。

それを繰り返していたら、わたしは自分が「生きている」という事実に対して、心許ない気持ちになってしまうのだ。

「ただ生きている」状態が、なんの区切りもなく、一本の線で繋がって、だらだらと続いていくような気がして。自分がここに、本当に存在するのかすら分からなくなってしまう




自分が文章を書いているのは、自分が生きていること、生きていたことを確認して、安心したいからなんだろうなと思う。

「文章を書くこと」は、わたしをこの世界に繋ぎとめてくれる行為なのだ。

悩んでいる状態が好きとか、自分ひとりで問題と向き合いたいとか、そういう話ではない。

むしろ「話を聞いてもらうこと」は、これからもどうかお願いしますと思っているし、スポンジのように悩みやストレスを吸収して、気づいたら溢れてしまうような自分のことを考えたら、そっちの方がいいとも思う。

ただ、わたしはそこで口にしたことを、ちゃんと忘れないようにしたいし、掴んだ感情の輪郭を、なかったことにしないよう、言葉に残しておきたいのだ。




わたしがわたしとして、生きていたいから。
これからもわたしは、この世界で生きていくために、文章を書き続ける。






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