いつまでも、朝まだきの逢瀬
彼はいつも、夜が終わりに近づくと、必ず「帰ろう」と口にする。
だから、空がだんだんと白くなり、空気が澄んで眩しい陽の光が地平線にのぼってくる頃には、わたしはいつもひとりだ。
ああ、今日も、一日がはじまってしまったな。
少しずつ明けてゆく遠くの空の淡い色を見つめながら、わたしは人生で最も絶望していて、それでいてなお、満たされていているのだった。
「そのまま眠ったら溺れちゃうよ、起きな」
そう言って呆れたように笑いながら、一人だけ先に扉の向こうに消える彼を朦朧とした意識の中で眺める。
本当にこのままわたしが溺れたら、この人はどうするんだろう、助けてくれるのかな、なんてぼんやり考えながら。
促されるまま支度をして外に出ると、辺りはまだしんとして、暗闇がわたしたちをすぐに飲み込もうとする。
さっきまで身体の至る所に残っていた彼のぬくもりは、みるみるうちに吸い取られてゆく。
街に出ると、迷うことなく真っ直ぐに、ずんずん早足でタクシー乗り場まで向かう彼の後ろ姿をわざとゆっくり追いながら、もし今この横断歩道の真ん中でわたしが転んだら、この人は手を差し伸べてくれるのだろうか、なんて考えながら、そんなことはできずに、必死で縺れる足を大きく前に出していた。
「今週は仕事大変って言ってたでしょ?だから今日は、ゆっくりできるプラン考えたよ」
そう言って得意げに笑う顔を見ていると、ああ、もしかして今、わたしは幸せなのかもしれない、なんて一瞬、錯覚してしまいそうになる。
熱いものが苦手なのを覚えていて、「ちょっと待ってて」と必死にお湯をかき混ぜているなで肩の丸い背中を上から見ていたら、なんだか滑稽だなあ、でも愛おしいなあと思わず笑ってしまった。
どんなに些細なことでも、口にしたことは全部覚えていてくれるし、わたしの考えや趣味趣向をすぐに汲み取って、好きなものや場所を言い当てて、当たり前のように叶えてくれる。
それがわたしの中でも当たり前になっていくのが怖かったし、この先のことを考えてしまいそうになるたび、ここまでだ、と自分で自分にストップをかけていた。
彼にとってはきっと、わたしという存在は別に特別なものじゃない。わたしにとってはこれが非日常でも、彼にとっては日常の些細な一コマなんだ。そう言い聞かせて、半年が経った。
「元旦は毎年、向こうが忙しいんだよね。今年も一人で飲んで過ごすことになるかなあ。」
独り言のように呟く彼の横顔を眺めながら、この人は本当に卑怯だなあと思う。
一度もこちらから明確な真実を聞いたことはないけれど、わかってるよねと言わんばかりの堂々とした態度は、やっぱり少し腹が立つ。
わたしはあなたにとってどんな存在なの、とも聞けずに、言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡っては、彼の吐いた煙草の煙と一緒に溶けて消えてゆく。
気を抜いたら「好き」だなんてうっかり呟いてしまいそうになることもあるけれど、それを口にしてしまったら、もう後には戻れない。そんな気がしてずっと言えずにいる。
たまに、思うことがある。
世の中、皆こうなんだろうか、と。
大人の関係は、これが普通なんだろうかと。
諦めからはじまった恋愛は、苦くて寂しいはずなのに、どうしてこんなにも強く心を惹きつけるのだろう。
ふとした瞬間に感じる孤独に戸惑いながら、自分からここを離れてゆく未来が、わたしにはまだ見えずにいる。
この孤独を、一瞬でもいいから彼にも感じてもらえたらいいのに、と思う。だけどそんなことを考えている時点で、もう決着がついてしまっている。
そんな悔しさが込み上げても、心の中で悪態をついてみることしか、わたしにはできなかった。
「もう朝になっちゃうし、そろそろ帰ろうか」
この言葉を、わたしはこれから何度聞くのだろう。
わたしは未だに、彼の横で眠りについたことがない。朝を一緒に迎えたことも。
いつも夜と朝の合間の、名前のつけられない幻のような時間に、別れを告げられる。
眠って朝起きたら、泡のようにすべてが消えてしまう。まるで昨日と今日の間に何事もなかったかのような、そんな感覚になって、心が空っぽになったような気さえする。
彼はこの空洞を、感じたことはあるのだろうか。
彼の口にする「帰ろう」という言葉ほど、わたしの心を冷やす言葉はない。
彼が優しい顔でこちらを見る、その度にわたしは、寂しさと孤独を味わうのだ。
その眼差しだけを、信じていられたらいいのに。
この温もりだけが、真実だったらいいのに。
そう思えたらどんなに幸せだろうと思うけれど、現実は冷たく、そして儚い。
安心とか穏やかな幸せ、なんて最初から求めていないけれど、ふとした瞬間に心に降ってくるこの感情をどう扱うのが正解なのか、子供のわたしには、まだわからずにいる。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
そう言ってわたしの掌に五千円札を握らせ、別のタクシーに乗っていく彼は、今から帰るべき所へ帰ってゆくのだろう。
家路に着いた彼は、隣で眠る安らかな横顔を見て、何を思うのだろう。
ここが自分の帰るべき場所だ、と思うのだろうか。この期に及んで、その人のことを愛おしいと思うのだろうか。
この先どんなことがあっても、決してわたしには抱くことのないであろう穏やかな感情を、その人に対して抱くのだろうか。
彼の心の中を覗いてみたい気もするし、一生知らなくていい、そんな気もする。
とりとめもない感情が、泡のように膨らんだり弾けたりするのを感じながら、新しい一日へと向かう白々明けの空を、何かに縋るように見つめていた。
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