あのバレンタインの夜に、わたしはずっと救われている
「バレンタイン」と聞いていちばんに思い出すのは、甘いチョコレートでも、恋人との楽しいデートの記憶でもなく、なぜか我が家のリビングで冷食の餃子を食べ続ける友人たちと、それをカウンター越しに眺めながらフライパンを振り続けた右手の重みと安心感だ。
人生でいちばん孤独に過ごすはずだったその夜、わたしは彼らに救われた。
その年の2月、わたしは当時片想いしていた先輩と、バレンタインの翌日にデートの約束を取り付けた。
彼とは数ヶ月に一度くらいの頻度で会っていて、相手からの好意を感じることも、なくはなかった。
わたしが悩んでいるときは、すぐそれに気づいて「大丈夫?話聞くよ」といつだって連絡をくれたし、「気分転換しよう」と言って飲みに誘ってくれたことも、何度かあった。
「いつも、本当によく頑張っててえらいね。」
「何かあったら、いつでも連絡して。」
仕事で心も身体も弱っているとき、そんな風に親身になって話を聞いてくれる彼の存在に、心の底から感謝していたし、救われていた。
正直彼がいなかったら、わたしの心は今頃取り返しのつかないところに行っていたかもしれないと思うほど、当時のわたしの心の支えだった。
それほどまでに支えられ、彼の掌の中でかろうじて形が保たれていたわたしの心は、もはや自分ではコントロール不可能だった。
だから、核心的なことを聞こうとするとはぐらかされることも、それなのに毎回会うたび一緒に朝を迎えるように誘導することも、その直後は必ず連絡がぱたりと途絶えて既読がつかなくなることも、全部仕方のないことだと割り切っていた。
わたしは彼との関係性に切り込むことも、諦めることも、どちらもできなかった。どんな関係性でもいいから、繋がり続けていたかった。
彼のことを本格的に好きになったとき、彼には同棲している恋人がいた。
バレンタインにチョコを渡そうと思ったのは、それでも自分の気持ちを伝えたかったからだった。
「そんなことしたら、また都合のいいように利用されるぞ」
「そうだよ、また先輩に流されちゃうよ?」
バレンタインの一週間前、わたしはその頃毎週のように集まっていた大学の友人たちに、バレンタインの計画のことを話していた。
彼らはわたしのどうしようもない恋の話を延々と聞いてくれて、心配はするけれど否定も批判もしないでいてくれる、数少ない貴重な存在だった。
「利用されるかもしれない」なんて、今に始まったことじゃないしなあ。
出会ったときから、彼が上で、わたしが下。
公平な関係なんて、最初から望んでいない。
だけど、少しでも彼との未来に希望があるのなら、どんなに小さくても、それに賭けてみたかった。それほど彼が、好きだった。
「でも、絶対、先輩は終電を逃すように仕向けてくるよ。誘いを断って、誰もいない部屋に一人で帰れると思ってるの?」
「いや〜、無理だな。お前は絶対、終電を逃す。」
決めつけるように口々に言う友人たちの言葉に、聞こえないふりをして日本酒を一気に飲み干す。
少しだけムキになって、
「帰れるもん。というか、今回ばかりは、ちゃんと帰る!」
そう宣言したとき、誰かがこんなことを口にした。
「じゃあさ、俺たちが最寄り駅で待ってたらいいんじゃない?」
「えっ、たしかに。いいね。寒空の下、私たちが待ってたら、さすがに戻ってくるよね」
なぜそんな話の流れになったのか、今となっては全く覚えていない。みんな日本酒を飲みすぎて、酔っていたのかもしれない。
けれど結果的には、それがわたしを救うことになった。
タイムリミットは、終電まで。
「みんなで最寄駅で待ってるから、それまでに絶対、帰ってこいよ。」
みんなのやけに真剣な表情を思い浮かべ、「なんだかおかしなことになったなあ」なんて他人事のように思いながら、デートの当日を迎えた。
その日、先輩はいつものように2時間近く遅刻してきた。
寒い中、慣れないヒールを履いて、2時間本屋さんで立ち読みをして待った。
そういえば彼と出会ってから、待つことにも慣れてしまったなあなんてぼんやりと思う。
待てば待つほど会いたいという気持ちが募り、最後の方は、ほとんど祈るように彼からの連絡を待った。
2冊目の本を読み終えてしまうというとき、ようやく彼から連絡が入った。
改札の前で彼と顔を合わせたら、
「遅れてごめん!お詫びと言ってはなんだけど、今日、連れて行きたいお店があるんだよね。」
そう笑顔で言われて、さっきまで抱えていた悲しみや怒りやもどかしさは、全部どこかへ吹き飛んだ。これも、いつものことだった。
久しぶりに間近で彼と目が合って、わたしはやっぱり、この人のことが好きなんだなあとしみじみ思った。
話は盛り上がったし、彼もいつも通り楽しそうにしていた。
「彼女と別れようか迷っている」というお決まりの話をカウンターに並んでうんうんと聴きながら、「チョコ、いつ渡そうかなあ」と考えていた。
今日も遅い時間からのスタートだったけど、いつもの先輩の様子から推測すると、少なくとも2軒目には行くだろう。
だけど今日は心を鬼にして、
「ごめんなさい、今日は帰らなきゃ。」
と言うんだ。
そして、別れ際にチョコを渡して、驚かせるんだ。
わたしはあなたと違って、遊びじゃない。
本気であなたと向き合いたいと、思ってる。
もう遅いかもしれないけど、小さな可能性に縋りたかった。
今日、伝えるんだ。そう意気込んでいた。
うまくいく、はずだった。
けれど彼の反応は、事前に想定していた可能性のうち、どれでもなかった。
「じゃあ、そろそろ行こうか」と言ってお会計を済ませ、たわいもない雑談をしながら向かった先は、駅だった。
…え、どういうこと……?
まだ22時過ぎで、いつもだったら「ここからが本番だよね、どこ行こうか」と無邪気に笑う彼がいるはずだった。
このままだと、チョコすら渡せない。
焦って頭をフル回転させるものの、結局何も思いつかず、駅の改札前まで来てしまう。
もう勢いで渡すしかない。そう思って、
「あの、これ、よかったら」
と、小さな紙袋を彼の目の前に差し出す。
彼は、目を丸くして驚いている。
だけどすぐに笑顔になって、
「え、うれしい!ありがとう」
と言ってくれる。
「大事に食べるね。じゃあ、気をつけて帰って。」
そう言って手を振る彼を引き止めることができるような性格だったら、今頃なにか変わっていたのだろうか。
ああ、行ってしまう。
今日が、終わってしまう。
その場から動けなくなりそうな身体を無理やり動かして、わたしはせめてもの強がりで、彼がまだ見ているうちにと早歩きで反対側の改札に向かった。
今日のために買ったピンクのニットとミニスカートは、たぶんもうこの先着ることもないんだろうな、と静かに思った。
「今度こそ、気持ちを伝える」という計画は、見事失敗に終わった。
いつものように遅くまで飲んで終電を逃し、都合のいい遊び相手として一緒に過ごすこともなければ、核心に迫ることを言うこともできず、すべてが中途半端だった。
中途半端な気持ちだけが、そのまま彼の手に渡った。
こんなことをいつまでも繰り返しているから、わたしはきっと、2番目にすらなれないんだろうなあと思った。
沈んだ気持ちを立て直しながら最寄駅の改札を出ると、
「思ったより、早かったな!」
「ちゃんと帰ってきて、えらいえらい」
「そこのスーパーで、飲み物買ってきたぞ〜」
と、友人たちがわたしを待っていた。
来客は2人だけのはずだったのに、なぜかもう1人加わっている。
「あれ、どうして?」
と聞くと、
「なんか楽しそうだったから」
と、爽やかな笑顔で返される。
普段は新宿の居酒屋か大学近くの公園でしか会わない彼らが、うちの最寄駅にいる。なんだか不思議な感覚だった。
いつもひとりで歩いている暗い夜道を彼らと一緒に歩いているということが、なんだかとても心強くて、愉快でもあった。
「そういえば、今日いつもよりかわいいね。」
「気合い入ってるな〜。これは先輩も気づいたでしょ。」
「ん〜、まあね。」
リビングのテーブルに座って缶ビールを開け、質問攻めしてくる彼らを適当にあしらいながら、冷蔵庫に入っている冷食を片っ端から開けて、フライパンの上に出す。
餃子にチャーハン、春巻き、ポテト。「お腹すいた」と言われたから、唐揚げに焼売も出した。
わたしが作ったものなんて何一つなく、ぜんぶ出来合いのものだったのに、彼らは何度も
「おいしい!」
「天才だな」
などと言いながら、ぜんぶ綺麗に平らげていた。
洗い物をしながら、明るいリビングで宴を楽しむ彼らの姿を眺めている時間は、不思議と心が穏やかになって、さっきまで支配されていた感情が次第に薄れていくようだった。
宴会は明け方まで続き、すっかりわたしの心も前を向き始めていた頃、ひとりの友人がこんなことを言い出した。
「ごめん、これから成田空港行かなきゃいけないから、そろそろ行くね。」
「はっ!成田空港?今から?」
「今日から、沖縄に行くんだよね。」
「沖縄?!え、間に合うの?ていうか、まだ始発もないんじゃない?」
どよめくわたしたちを前に、当の本人はなぜか冷静で、
「うーん、ぎりぎり間に合うか、間に合わないか…とりあえずちょっとやばそうだから、そろそろ行きます。」
と言って、早々に出て行った。
「まさか、こんな時にわざわざ家にきてくれたなんて…」
「あいつ、いい奴すぎるな…」
残された私たちは、彼女への敬意と驚きと、感謝を口々に呟いた。
「じゃあ、こいつを起こして、俺たちもそろそろ行くわ。」
リビングのカーペットの上で自分の家のように手足を伸ばして、すやすや寝ている友人を揺さぶっている。
その寝顔はなんだか幸せそうで、平和な気持ちになる。
「ほら、家に帰るぞ〜」
そんなやりとりを見ながら、ふと目線を窓の外に向けると、空はもうだいぶ明るくなってきていた。
「うーん、眠すぎて無理。もう少し寝てから行く…」
いつもの飲み会の翌朝のように、舌足らずで寝ぼけた友人は一向に起きてこない。
「いや、起きろって。ここにいられたら、家主が困るだろ。」
なんとか彼を立たせて玄関まで行き、
「ありがとう、楽しかった。また来てね」
と言って2人を見送る。
「ほんとごめんな、ずっと食べてばっかりで…突然だったのにありがとう、お邪魔しました。おやすみ!」
いやいやこちらこそ、と言いながら手を振って扉を閉めようとすると、
「ハッピーバレンタイン〜」
と寝ぼけながら言う声が、明け方の空の向こうでこだまして聞こえた。
そうか、今日はバレンタインだったな。
先輩と一緒に過ごした夜と、彼らと過ごした夜が地続きになっているなんて、なんだか信じられない。
だって、この日のために、あの時間のために、ずっとずっと頑張ってきたのに。
一瞬だったなあ。本当に、あっけなかった。
わたしはたぶん、まだしばらく彼のことを諦められない。
彼の気分がわたしに向いたとき、呼ばれたらすぐ会いに行ってしまうような、都合のいい女から抜け出せない。
だけど、それでもいいや、と思う。
わたしの心には、今日の記憶がある。
缶ビールを飲みながら、誰が観ているのかわからないテレビが煌々とつく明るいリビングで、取り留めもない会話を延々と繰り返す、友人たち。
我が家の冷食を「おいしい」と連呼しながらほとんど食べ尽くしたのには驚いたけど、ずっと手を動かしていたおかげで、心は少し軽くなった。
部屋には、さっきまで溢れていた賑やかな笑い声の余韻と、油の匂いが充満している。
人生に一度くらいなら、こんなバレンタインがあってもいいか。
これから先、どんなに孤独で絶望的なバレンタインを過ごすことになっても、わたしはきっと、この記憶に救われる。
部屋を換気するために、窓を開けて大きく空気を吸い込んだ。
そして、小さく呟いてみる。
「ハッピーバレンタイン。」
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