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Twitterへの投稿を無期限休止します
突然ですが、明日の200日目をもって、ツイッターへの投稿を無期限休止することにしました。
ある時からパタッとお知らせ投稿をやめたので薄々感づいていた方はいるかもしれませんが . . .
投稿といっても、情報発信をしているわけではなく、noteへの投稿のお知らせを投稿する程度の活動に抑えていたのですが、いろいろと思うところがあって、今回手放すことにいたしました。
ひと言でいえば、Twitterに疲れてしまったのが一番の理由です。「やっぱり私には合わない」という違和感をずっと抱えながらも、Twitterがあるからこそ見つけてくれる人もいるかもと思って続けてきました。
でも、その違和感が段々と抑えきれないものになって、無視できないほどに強いものになっていきました。Twitterから離れているはずなのに、開いていない時にも精神的に私を疲弊させるほど、プラスよりマイナスの占める部分が圧倒的に多くなってしまった。
流れゆく景色をボーッと見ながら「もう潮時かな」という言葉が脳裏をよぎって、やめる決断をひっそり下したのが、だいたい一週間ぐらい前。「200日目をもって終わりにしよう。それで、その前日か次の日に報告しよう。」と思い続けて今に至ります。
noteで毎日投稿を続けている時点で充てられる時間に限りがあるのは明らかですし、開くのもしんどくなるほどなのであれば、もう続ける意味もないのではないかなと思って、思い切ってTwitterを手放すことにしました。
一応、DMでの連絡用としては当分残しておく予定です。それすらも辛いと感じることは . . . ないと思いたいですが、万が一あった場合は完全に削除するでしょう。その時はお世話になった人たちには個別にご挨拶はしたいと思ってはいますが、どうせやめるやめる詐欺だろと思われそうなので、なにも言わずにやめる可能性もあります。これはその時になってみないとわかりません。
連絡事項として、いま伝えられることは書き終わりました。
用件だけ知りたいという方、時間がないという方はここで閉じて大丈夫です。ここから先はどうしてやめることにしたのか、その背景(私のボヤキ)に入っていきます。
ここに書いたことが全部ではないのですが、「乗りかかった船だし、最後まで付き合いましょう」という心の広い方はどうぞ。
やっていくうちにだんだん虚しくなってきた
まずこれです。
そもそもの話。もともとTwitterを楽しいと思えないタイプだったことが既にこうなることを運命づけていた、といっても過言ではありません。
合わないことを無理に続けて、虚空に向かってツイートという140文字の言葉の塊を投げ入れて、ということを続けてきたわけですが、ふと考えた時に「なにやってるんだろうな、私は」と虚しくなってきたのが今回の決断の始まりでした。
時折、Twitter経由で読みにきてくれている人もいるんだなとわかる瞬間はありましたが、それを考慮してもたいして読まれているわけではないし、大抵の場合、他のツイートに埋もれて誰の目に留まることもなく消えていきます。悲しいかな、これもフロー型コンテンツの宿命。
時々リプをもらえたり、シェアをしてもらえることもありましたが、特に嬉しいと思えなくなりました。ただ虚しい気持ちが日に日に濃くなっていって、最後には、やっていく意味を見出せなくなったのです。
見たくないものを何の前触れもなく嫌でも見なければならない地獄
次はこれです。
いいね。リツイート。引用リツイート。リプ。
これらに共通しているのは、フォロワーのタイムラインに『発言者をフォローしているしていないに関係なく別の人のツイートを表示させる』ことです。
いくら私たちが仲良くしている人たちであっても、その人たちが交流を持っている別の人たちとも仲良くできるとは限りませんし、中には顔も名前も見たくないと思っている人も一定数存在します。
そんな、私たちにとって合わない人の発言やら馴れ合いやらを、あらゆる手段を使って嫌でも見せてくるのがTwitterなのです。
もともと、Twitterのこの側面が受け付けないと感じてきたタイプで、これが原因で何度も距離を取っては戻ってきてを繰り返してきました。でも、別名義の時も含めて何度もやってきたのに変わることはついになかったので、もう私はTwitterをやるべきではない人間なのだと、今回ようやく諦めがつきました。
いいねが煩わしくなってきた。
「『いいね』ってつけてもらえたら嬉しいはずでしょ? 煩わしいってどういうこと?!」
これは人によっては理解できない理由かもしれませんが、私にとってはかなり深刻な理由です。
『いいね』は必ずしも『いいね』ではないことはいつも感じてきました。
だからこそ、そのハートマークに隠された意味を知りたいとずっと思ってきたタイプです。これまでも、下記のような記事を投稿してきたぐらいです。
noteのお知らせを投稿して、いいねをつけてもらえることはありますが、いいねがついたとしても必ずしも読まれているとは限りません。それはツイートアクティビティを見ればわかってしまいます。
それは『後で読む』かもしれないし、単なる『ツイートへの既読』かもしれない。
意味が何であろうと、『いいね』だけで伝えきることはできないものです。
『いいね』は手軽です。だからそれで済ませてしまう人は多い。
でも、言葉でも伝えきれない気持ちがあるのに、単なるハートマークでそれを伝えられるわけがないのです。だから私はいつもその裏に隠された意味を知りたかった。
『いいね』の意味を深堀りしようとしている自分自身と、それが叶わない現実に嫌気が差して、ついには、『いいねをもらうこと』すらも煩わしいと感じるようになりました。
もういいねなんていらない。むしろつけられないように設定できないだろうかと思うことが多くなっていた私はきっと、Twitterに向いていなかったのでしょう。
フォロー数0実験も、『Twitter嫌い』の本心をごまかせなかった
タイムラインが快適になるのではという好奇心と、身の丈に合った情報量を知りたいと思って始めたフォロー数0実験も、結局最後は意味をなさない結果に終わってしまいました。いわゆる企画倒れです。
リストではリツイートを非表示にできないし、キーワードミュートもできない。結局なにかしらの不快感が残って、それが頭の中から離れませんでした。
Twitterは私にとって害の部分が強すぎる。私はTwitterをやるべき人間ではなかった。
「Twitter最高」だなんてとても言えません。
はっきり言って、いろいろなことがしんどい。
それなのに、思い切ってやめる勇気までは持てませんでした。せっかく縁があった人たちとの関係も終わる。連絡が取れなくなる人もいる。いや、でもそれは私が勝手にそう思っているだけで、相手はそう思っていないかもしれない。
表向きの態度がどれだけ好意的に映っても、いいねをつけてくれる人であろうと、そのいいねの裏では「どうでもいいね」と思っている可能性だってある。
Twitterを手放せば追いたいと思っていた情報が追えなくなる。でも、タイムリーに情報をキャッチできたとして、本当に心からホッとするほど得することがどれだけあるだろうか。言うほど取り返しのつかない損はしないのではないか。あぁ、考えている時点でSNSの術中に嵌っている。これは、FoMo (Fear of missing out)というやつではないのかと、さらに嫌になる。
「これからの時代、メディアを育てていくのにSNSは必須ツールです」
動画・配信サイトで有名な投稿者/配信者たちも、インフルエンサーも口を揃えて言っているこの"鉄則"も、私がSNSを完全にやめるのを阻んでいました。
SNSで拡散されたいわけではないし、むしろ平和でいたい。でもTwitterをやめれば離れていく層もいるだろうし、これから見つけてくれていたかもしれない人たちをも手放すことになる。
「苦手であっても、そこから知ってくれる人もいるかもしれないからオプションとして持っておくといいのでは」
そうアドバイスをもらったことがあって、せめて連絡用に取っておこうとはしているけど、本当はできることなら完全に断ち切りたい。頭の痛くなることに関しては極力0にしたいのです。
この感覚は初めてではありません。別名義でアカウントを持っていた時にも何度かありました。
人間関係のしがらみから頭が痛い日々を過ごしていたことも。
見たくない情報をイヤでも見ないといけないTwitterに疲れて、何日も、何週間も離れたことも。
他の人のようにうまくいかなくて悩み苦しんだことも。
誤解を招いたり相手に余計なことを考えさせたりする赤いハートマークも、裏で何を言っているかわからない緑の矢印も、もうウンザリなのです。
数字などクソくらえだ。
いいねもクソくらえだ。
リツイートもクソくらえだ。
でも、どうせ誰も悲しまない。
真実をも歪曲させかねない数字の暴力で少数派の言葉をかき消して、踏みつぶしながら行進していくことなど、あの青と白の世界では当たり前のように毎日起きていることなんだから。空の色を模した残酷な世界。
あぁ。やっぱりそうか。
私は、SNSに向いていない。
もともとSNSをやるべき人間ではなかったのだ。
そのことをわかっていながら、『SNSを使うべき』にとらわれて蓋をしようとしてきました。
でも、私にはできなかった。Twitterは闇が濃すぎる世界だった。欲を暴走させて、見たくないものを無理矢理見させようとする世界。でも心から望むほど必要なものはそこにはなかった。
だいぶ前に行き着いたはずの結論に再び戻ってきました。今度こそ変わるかもしれないと一縷の望みを抱いたのも虚しく、結局最後はなにも変わりませんでした。
完全に消す勇気はまだない。でも極力考えなくて済むようにしたい。となると、できることはひとつしかありません。
前と同じように、連絡用アカウントに戻ることです。
できないものはできない。
苦手なものは苦手。
「Twitterで人生が変わった」だの、「Twitter最高」だのと、私にとっては世迷言にしか聞こえないことも、Twitterが合っていた人だからこそ、またはツイ廃と呼ばれるほどの選ばれし者になれた人だからこそ言えていることなのでしょう。
私はそうではなかった。
Twitterの女神は私には微笑まなかった。
私の居場所は他にあるのだと。天の声は、風の声は、そう言っている気がしてならないのです。
Twitterをやらなくても、SNSをやらなくても、生きていけるし、創作活動はできる。
また向き合えるようになる時期が来るかはわからないけど。いや、もうそんな夢を見てはいけないのでしょうね。もう潮時だと言いましたから。もう散々「今度はうまくいくかもしれない」を繰り返してうまくいかなかったんですから。夢から醒める時が来たのです。
私は、Twitterから離れます。
追記(2021年7月現在):
無期限休止にしていたTwitterを完全に削除しました。
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