2020.6.29-7.3 気づけば育つ本の山、再読の夏
ベッドの積ん読本の山がすこやかに育っている。厳密には、近々読みたい再読本も積ん読にさし込まれている。
いまの家に越してからは、寝る前に読む本を置くくらいで積んではいなかったはずだった。なのに、ふと気づけば山ができていた。中高生のときはベッドの半分を本の山で埋めていて、それなりに眠れてしまうのでしばらくそのままだった。しかし長じるにつれて私にも分別がついたので、もう一列増やすのはかたく禁じている。上に積むのはよし。
実は、部屋にはほかにも本を積んでいる場所があるのだけど、まあ、いいことにしている。いまは机にも本がどどんと積んである。
ではものすごく本を買っているのかというと、案外そうでもない。
ここのところ暑気あたりにふりまわされていて、外出自体を控えている。その間も通販や電子で本は買っているのだけど、しばらく本屋に行かないでいると、身体の内側がゆっくりと削れていくような心地がする。わがままなことに、それは気軽に行けるはずの近所の本屋では潤わず、欲しかった新刊でさえ手に取るのはいまでなくてもいいような気になってしまう。だから街へ出て推し本屋に行くと、欠けていたものがじんわりと満たされるようで、ああ生きてるんだな、と思うのだった。ぽちった本が届いたらいそいそと取りにいくし、電子書籍のダウンロードを待つ数秒間も好きだけれど、なかなかあの安らぎには替えられないなと思う。
ちなみに、いまは随分推し本屋に行けておらず、日々ざりざりと削れ続けている。いままで、こんなに本屋に行かないことなんてなかったものなあ。引きこもり生活が向いていると思っていたけれど、ステイホーム期間を経て、そればかりじゃだめなんだなと気づいてしまった。
毎日、暑気あたりでぐったりしながら積ん読の横に寝転んで本を読み、なんとか起き上がって、しなくてはいけないことをしている。ゆるふわ無職だけど、ありがたいことにちょこちょこライティングのお仕事をいただいたりもしていて、リモート取材をしたりもする。
先日は、素敵な夏の気分を纏うために、西瓜を摘まみながら原稿を書いていた。夏は水菓子をサイダーやお酒の海に沈めてしまいがちな季節。
あとは、昔からずっと好きな本を読み返している。とても楽しいのだけど、ちょっとだけ困っていたりもする。付箋を惜しみなく使いながら、何度目かもわからない再読をしていると、どうして? というくらいにどきどきしてしまうからだ。そっと手で押さえてみたりするほどに、それはもう甘酸っぱく胸が痛む。目の前の物語とはすこし別のところで、かつての私がすぐそこにいるように感じられる、その鮮やかさにいつも驚く。かつての私は、意外なほどにすんなりといまの私に重なる。そうするとどうなるかというと、じわじわとこみ上げる愛しさにざぶんと頭まで浸かってしまうのだった。
一時期、あまりにもときめいてしまうので、読んでいる間じゅう頭の中に花が咲いているような感じがして、かなり混乱していた。最近ようやく落ち着いてきたので、よかったなと思う。
本と書きものと本の合間には、毎日ホットサンドを作っている。
ホットサンドは何にも考えなくても作れるので、そのときばかりは頭をからっぽにしてことばを追い出すようにしている。食パンがなくなったのでしぶしぶ日焼け止めを塗ってスーパーへ行くと、ポストに手紙が届いていた。
それで、ライティングの請求書を出さないといけなかったことを思い出した。覚えているうちにと、さっと作って投函しにいく。しかしビジネスっぽい封筒を持っていないな……と思いつつ、送付先が福岡だったので、おいしいにっぽんシリーズ 第1集の切手を貼った。
いっとき、私は何かを大切にするにもずいぶん時間が必要になってしまって、気持ちのハードルばかりが高くなっていっているようなことがあった。いまもその名残はあるけれど、ステイホームと無職が合わさって、ようやく穏やかな気持ちで手紙と向き合えるようになりはじめていて、そのことが最近、ちょっと嬉しい。
暑気あたりが長らく尾を引いているので、そろそろ元気になりたいところ。