國光吟さんのニュースから感じた残念な想いを吐露してみました。
最近なにかと話題の ”國光あきら氏”
ご存知ない方の為に、たくさんある報道の中からひとつ紹介しておきますね↓
言わずもがな、世の中には色んな人がいて色んな考え方が存在する。だから、相手の意見が理解できなくて、自分の正義を振りかざして相手をバッサバッサと切り倒してしまい、相手を傷つけたり揉め事に発展することもよく起こる。かつての私も、恥ずかしながらそんなことをしていた。
でも、今は色んな意見があってもいい、自分と違う考え方の人が居てもいいと思えるようになった。だから、私は、国光あきら氏や小林麻耶さんが、どう考えてどう生きようとそれを自分の物差しに合わせて正そうという気持ちも、非難する気持ちもない。
ここで私が吐露したいのは、彼と彼女が語る「スピリチュアル」についての残念な気持ちだ。彼は、手をかざすだけで身体の調子が良くなるという「手かざし療法」をやったり瞑想の講座などもやっていたりする。
私も瞑想をしているが、「瞑想」という言葉にネガティヴなイメージを持つ人も多いだろう。今回の国光氏の報道と同じように「瞑想」というワードが話題になり、これまでにも、瞑想が怪しいものと捉えられるようになったことが多々ある。大きな例を挙げると、世間を震撼させた「オウム真理教事件」。教団の首謀者である麻原彰晃は、弟子に瞑想を指導していた。
こんな報道がされると、たちまちスピリチュアル否定者の出番となってしまう。
「待ってました!!!」と言わんばかりにスピリチュアルがいかに怪しいかと言うことを語り始める。それが、私はとても残念だ。
どんな物事にも、そこから発生する良い面と悪い面がある。瞑想についてだけでなく、スピリチュアルな側面のある、宗教や精神世界などについても、このひとつひとつの本来持っている性質そのものは悪くないはずなんだけど。
瞑想については、落ち着きのなかった自分自身が集中力や忍耐力を鍛える為に始めたが、とても良い変化が見られていて、ライフワークにもなっている。8年たった今も、そこに怪しさやネガティブな物は何もないし、起こってもいない。
宗教に関しては、信仰をすることがその人にとってプラスに働くのなら、それはとても良い行いになると思う。(宗教は道徳的な教えが基になっているものが多いので、人に思いやりを持てたりすることなど…)
私が知る多くの人は「私は無宗教です」とよく言う。日本人は「宗教」という言葉にもネガティヴなイメージを持つ人も多い。でも、これは、日本という国の中だけのことであって、世界に目を向けると、商談などの会談時に「貴方の信仰している宗教は何ですか?」と聞かれることが多く、その問いに対して「私は無宗教です。」と答えると、困惑した表情で「あなたは何も信じるものがないのですか?」と言われ、信頼関係が築きにくくなるという話を、実際に体験した方から聞いた。
無宗教です!と言っている人も、神社仏閣に足繁通っていて、それも信仰のひとつだから、意識せずとも誰の中にも信仰心ってあるんじゃないかと思う。
また、信仰することが、集団になってしまうことでおかしな方向に行ってしまい、イメージが悪くなるようにも感じている。
精神世界についても、報道されたような人物が語れば語るほど、胡散臭くマイナスイメージになって、アンチの発言を誘発してしまう。
でも、「精神」っていうものは、人間の誰の中にも備わっているもので、この「精神」ってものがあるから、人は、喜びを感じたり悲しみを感じたり様々な感情を経験して成長していくんじゃないのだろうか。精神世界というのは、人間として生きてる限り切り離せない世界だと思う。
要は、どんな物事にも、それを悪用して金儲けをしたり、人を良くない方向に導いたりする一面があるから、その物事を自分の目でしっかりと見極めることが必要だと思う。これから多様化の時代に突入していくと、これまでより膨大な選択肢が広がるから、尚のこと自分の見極めと選択が重要になる。先入観や思い込みを捨てて、まっさらな気持ちで物や人に向き合えば、正しい道に進めるんじゃないかと思う。
私自身、瞑想を続けて8年経った。正直言うと、周りの人に「瞑想している」と堂々と言えるようになるまで時間が掛かった。変な風に思われるかもしれないという気持ちがどこかにあった。だから、今日書いた記事は自分への言い聞かせにもなったし、想いの整理もできたように思う。
私の残念な気持ちについて、様々な意見があると思いますが、これはあくまで多くの思想の中のひとつの考えとして捉えてくださいね!反対意見の人も、私は間違っているとは思いません。揉めずに互いを認め合って平和な世の中にしていきましょうね♪
最後に、私が考えるスピリチュアルとは…
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