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羊とサラリーマン
...人々はより念入りにヒツジを選別し、人間の必要性に合わせ始めた。人間による管理に最も強く反抗する、いちばん攻撃的な雄ヒツジが真っ先に殺された。最も 瘦 せたメスや、やたらに好奇心旺盛なメスも殺された。世代を経るうちに、ヒツジは肥え、従順になり、好奇心を失った。こうして、メアリーの行く所ならどこへでもついていく子ヒツジが誕生した。
『サピエンス全史(上) ユヴァル・ノア・ハラリ』
忠実さ、というものは、大抵どの時代においても美徳とされる。中世ヨーロッパでは騎士道において忠誠が尊ばれたし、武士の世界では主君の命に絶対順守であることが侍の本懐であったし、現代においても上司、あるいは会社に従順であることが良い社会人とされる。
人が「人権」や「自由」といった概念を、より良い社会を作るという目的の下に産み出したように、「忠実」を美徳と考える僕たちの在り方もそうした目的の下で作られたもので、そしてそれはきっと、より高級な福祉のためには無くてはならないものの一つだ。
ここに致命的な問題がある、というわけではない。僕が時の権力者であったとしても、きっと同じことをしただろう。より良い社会のためには、これが最善手であることを僕は疑わない。
けれども、「忠実な市民」でいることの本質的な意味について考えてみるのは、決して無意味ではないだろう。
忠実であること。本当にそれは、良いことか?
家畜業を営む僕の前に、羊がいる。彼らは僕の号令をよく聞くし、お腹が減っても暴れもしない、とても「従順」で「優れた」羊だ。従順な彼らがいるおかげで、畜産に携わる僕が生きていける。僕が生きていけるから羊も増える。お互いに利のある、win-win だ。
ここには「従順な羊」が登場したが、彼らはいつ、「従順」になったのだろう。
初めからだろうか。いや、そんなことはない。生物である以上、生まれてくる者には多様性があり、それが全て同一の性質であるなど、本来あり得ない。
ではどこで彼らは従順になったのだろうか。至極当然の疑問だが、この問いは根本的なところを間違っている。
彼らは従順になったのではない。従順ではない羊を人間が淘汰した結果、従順な羊だけが存在するようになったのだ。
畜産を営む上で、攻撃的な羊、好奇心旺盛な羊は不要である。そんな羊を取り除きながら交配を重ねることで、「従順な羊」という生物が生まれたのだ。
さて、そうして作られた「従順な羊」を念頭に置いたところで、「従順な市民」である私たちのことを考えてみよう。具体があったほうが分かり良いので、サラリーマンを引き合いに出す。
会社を経営する僕の前に、会社員がいる。彼らは僕の指示をよく聞くし、理不尽なことがあっても怒りもしない。とても「従順」で「優れた」サラリーマンだ。従順な彼らがいるおかげで、会社を経営する僕が生きていける。僕が生きていけるおかげで彼らも生きていくことができる。win-win だ。
これは仮定だが、何の不自然さも感じられないことと思う。だが羊の仮定との符号するところの多さには、驚きを感じる。
結果に符号するところが多いということは、過程にもまた、符号するところが多いということだ。
羊は、「従順ではない羊」を淘汰することで、「従順な羊」となった。
では、僕らは?
僕らは、「従順であること」を美徳とすることで、「従順ではない者」を淘汰し、「従順な者」が自然発生するように作られたのだ。
重ねて言うが、人間社会の平和を考えるならば、これは最善手だろう。結果的にも、今の社会は多少の不都合はあれど、概ね正常に機能している。
だが、その平和の為に、僕らという人間は過去の人の手によって都合の良い存在に加工されているということを考えてみるべきだ。
人権、自由、従順、大いに結構だ。
しかしそんな概念は元々自然に存在するものではない。どこの世界に、生きる権利を持った生物がいるというのか。どこの世界に、不自由のない生命を謳歌する生物がいるというのか。どこの世界に、初めから従順であることを強制された生物がいるというのか。
「従順であれ」という願いは、過去の人によって願われ、僕らの身の内に結実した。
それを美徳と呼ぶのもまた良いだろう。
だが、それを「呪い」というのも、また適当だ。
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