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要約 『幸福論』 ラッセル(1) 不幸の原因について

全体要約

 現代社会において、多くの人々が自らが不幸であると感じている。不幸の原因は大別すれば 2 つ、社会制度と個人の心理である。前者について、特殊な例を除けば個人は影響を及ぼしえないが、後者については個人の干渉の範疇であり、それを善なる方向に導くことができたならば、人は幸福に達し得る。そこで考えるべきは 2 つ、自らの内面の調和と、自らの外界への興味である。

 私たちは容易に自己の殻へと閉じこもる事態に陥る。あるいは、自らの関心を自らにのみ向ける自己中心的な考えに囚われる。例えば、恐怖、妬み、罪悪感、自画自賛などである。これらに共通なのは、自らの関心が自己の内側にしか向けられていないという点である。これらの観念は、あるいは社会によりあなたに植え付けられ、あるいは社会により涵養されたものかもしれない。しかしこれらの考え方は自己の意識により、変えることができる。幸福への第一歩は、これらの自己没頭の病気に打ち勝つことである

 幸福を構成する要素は多くある。達成を感じること、尊敬を得ること、主義主張を持つこと、趣味を持つこと、愛情を知ること、など数えきれない。しかしあえて幸福の秘訣を答えるとしたら、それは、あなたの興味関心を広く外界に向ける、ということである
 幸福な人は、その興味が自己のみならず、広く外界へと向いている。あなたが友好的な関心をもって外界に目を向けるとき、自己と外界との世界の対立は霧散する。自我と社会が結合された時、自分が宇宙の市民だと感じられ、世界がもたらす様々な事柄を、心から楽しめるようになるだろう。

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何が人々を不幸にするのか

 不幸であると感じる人は多い。不幸とは、あるいは幸福だと感じえないことだと換言しても良い。それについてはあなたが自問してみてもいいし、あるいは周りの人々に目を向けてみてもいい。後者の場合、多くの人々がそれぞれに心配事を抱えていることに気づくだろう。それは不安かもしれないし、競争への専心からの疲れかもしれないし、あるいは全ての事柄への無関心でもあるかもしれない。

 さまざまな不幸の原因は、一部は社会制度の中に、一部は個人の心理の中にある。後者を生み出すのは前者であるという事実は否定し得ないが、しかし本書で前者について多くを語る気はない。ここで私が取り上げたいのは後者であり、すなわち、普通の日常的な不幸に対して、一つの治療法を提案することにある。

  こうした不幸は、大部分、間違った世界観や道徳などによるもので、これらによって個人の内部における熱意と欲望が打ち砕かれてしまうところに原因がある。こういうことは、個人の力でなんとかなる事柄である。

競争

 街行く人々の誰かに向かって、生活の楽しみを一番邪魔するのは何かと聞いてみるが良い。彼は、「生存競争だ」と答えるだろう。確かに、今日の社会を生存していくために、競争行為があるのは間違いない。

 しかし考えてみるが良い。人々が「生存競争」という言葉で意味しているのは、実は、成功のための競争に他ならない。この競争に参加している時、人々が恐れているのは「明日の朝食にありつけないかもしれない」という恐怖ではない。「隣近所の人たちを追い越すことができないのではないか」という恐怖である

 そういう男の生活を考えてみよう。彼は素敵な家と、妻と子供と、そして人の羨む仕事を持っている。彼は家人がまだ目覚めぬうちに起き出し、会社へと向かう。彼は精力的に仕事に励み、昼食を取引相手と共にとる。帰宅してなお仕事は終わらず、次は晩餐をも取引相手を共にし、床についてようやく次の朝までの短い安息を得る。

 彼の仕事はレースに似ている。しかしこのレースのゴールは墓場のみである。彼は我が子について何を知っているか?妻について何か知っているか?
 おそらく、年々彼は孤独になる。注意力はますます仕事に集中され、ビジネス以外の生活は潤いを失ってくる。彼が成功を望むだけでなく、成功を追求することは男の義務であり、そうしない男はつまらない人間だと心から強く信じている限り、彼の生活はおそらく幸福にはならない

 彼に全面的な非があるわけではない。そうした態度を理想的としているのは、社会全体であり、彼の態度はその所産である。現代の社会においては、金を儲ける人間は賢く、儲けない人は賢くないという考えが蔓延っている。人生はコンテストであり、尊敬が払われるのはその優勝者に対してのみだという考えられる。本来競争とは無縁の領域にまで、競争の観念が侵入する。

 しかしこれらを自己の価値観に取り入れ、競争を人生の主要目的として掲げても、その先に幸福は無い。この価値観に囚われる人への治療法は、バランスの取れた人生の中に、健全で、静かな楽しみのはたす役割を認めることにある。

退屈と興奮

 退屈の本質的要素の一つは、現在の状況と、もっと快適な状態とを対比することにある。現状からの逃避を希求する気持ちと言ってもいいかもしれない。従って、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である

 私たちは祖先ほど退屈していないが、しかし祖先よりもずっと退屈を恐れている。そして私たちは、自らが望めばがむしゃらに興奮を追求できることを知っている

 退屈から逃れたいという思いは自然な感情であるし、それを強く抑止しようとは思わない。むしろ一定の量の興奮は積極的に摂取するべきである。しかし、問題は分量である。刺激を求めてコショウを好むのは悪いことではない。コショウを常用したならば、次の刺激を呼び起こすために必要なコショウの量は段々と増えていき、ついには刺激を知覚する能力が著しく衰え、健康までをも損なうだろう。

 偉大な本というのはおしなべて退屈な部分を含んでいる。偉人の生涯にしても、伝記に記されていない相当期間について退屈な時間が存在する。
 つまり、誰であれ、何であれ、退屈に耐える力をある程度持たなければいけない。そして幸福ということについて言うのであれば、幸福な生活は、概ね静かな生活でなければいけない。

疲れ

 純粋な肉体の疲れは、過度でなければどちらかといえば幸福の要因になりやすい。現代社会において肉体の疲れよりももっと深刻なのは、精神の疲れである。説明するまでもなく、これらはあなたが幸福であることの障害になり得る。

 精神の疲れの原因もまた多くであるであろうが、その多くが心配に所属すると考えている。心配とは恐怖の一つの形であり、あらゆる形の恐怖は精神の疲れを生じさせる。

 あらゆる種類の恐怖に対処する正しい道は、理性的に、平静に、その恐怖についてすっかり考え抜くことだ。恐怖が心配たり得るのは、それを恐れるあまり、その本質を直視せず、それでいて度々にそのことを考えてしまうからである。従ってあなたは、恐怖の原因について深く考え、その理を見抜き、恐怖の衣を剥ぎ取り、ついには馴染みを覚えるほどの距離まで引き寄せてやれば良い。

 もしかしたら考え抜いた末、その恐怖の原因はどうしようもないほど絶望的なものに思えるかもしれない。その時はこう考えて欲しい。どんなに最悪の場合でも、人間に起こる事象など、どこまでいっても究極的には矮小な事柄である。何一つ、宇宙的な重要性などありはしない、と。

妬み

 不幸の最も強力な原因の一つは、妬みである。妬みは、人間の情念の中で最も普遍的で根深いものの一つである。
 妬みが幸福を大きく妨げるのは間違いない。人間性という領域においても、いくつかの特徴の中で妬みが最も不幸なものである。妬みは、自分の持っているものから喜びを引き出す代わりに、他人が持っているものから苦しみを引き出す。そして、他人の利益をも損なおうとする

 妬みは知的な悪徳と言える。その本質は、ものそれ自体としてみるのではなく、他との関係においてそれをみることにある。
 これは競争を強いる社会によって涵養されたということができるだろう。現代社会にあって、自らの価値の指標となるのは収入であり、可視化された指標は、他者との比較を免れ得ない。
 しかしこの点についていうならば、あなたはいくら成功を重ねても妬みから逃れることはできない。あなたはナポレオンを羨むかもしれないが、ナポレオンはアレクサンダーを羨んだろうし、アレクサンダーはヘラクレスを妬んだことだろうから。

 妬みが常に悪であるかといえば、そんなこともない。例えば、民主主義の基礎は妬みにある。少なくとも民主主義の改革が起きた時、その大きな推進力になったのは妬みである。
 しかし民主主義はうまくいった例だが、基本的に妬みの結果としてもたらされる公平の類は、最悪の種類のものになる恐れが多いことも事実である。妬みに端を発する公平さは、不運な人の快楽を増すよりも、幸運な人の快楽を減ずることに帰結しがちだからである。

 残念ながら私たちは、進化のある段階には達しているが、最終の段階にはない。私たちはこの悪徳の本質を直視し、早くこの段階を通り抜けなければいけない。文明人が己の知能を拡大してきたように、今や己の心情を拡大しなければいけないのだ。

 罪の意識もまた、不幸を構成する大きな要因である。ここでいう罪の意識とは、法律上の罪のみを彼岸とする言葉ではない。罪の意識を喚起する、自らの中の道徳観念をも範疇とする。

 私たちの中には、無意識に刷り込まれている道徳的な規範がある。それは往々にして幼少期に植え付けられているものであるが、例えば、性的なことに興味を持ってはいけないであるとか、下品な言葉を使ってはいけないなどのことである。
 それらは教育者によって私たちに埋め込まれるものだが、幼少期には絶対服従の観念として教え込まれただけであり、その理由を明確に消化せずに受け入れたはずである。そしてそれらの観念は消失の機会を失い、大人になった今でも、特に棄却の必要に駆られることもなく、唯々諾々とその道徳律に従い生きている人がいる。

 それが悪だとは言わないし、それが善なる結果を導くことも多々あることと思う。しかしまた、それらが不幸の原因になることもある。埋め込まれた道徳律中の女性像により、異性との交際がうまくいかなかったりする人などがこれに当たる。

 このような時私たちは恐怖に対してそうしたように、自らの道徳律についてその本質をしっかり考えなければいけない。今まで無意識に正だと考えていた真理について改めてメスを入れ、その真実性を吟味するのだ。そして多くの場合、自らを戒める道徳観念には、強い合理性が存在しないことに気がつくだろう。その道徳律が絶対に思えていた頃のあなたは、まだ弱くて愚かだったためになんの判断もできなかった。しかし今や、あなたは弱くも愚かでもない

 自らのうちに自ら説明できない観念があるような内部分裂の状態にある性格のままでは、幸福に至るのは難しい。あなたは内面の調和を図るべきだ。



要約外の名文

・陽気な夕べに集まった人をよく観察してみるがいい。誰もが幸福になろうと思い定めてやってくる。

・あるナルシストは、大画家に払われている尊敬に感銘して美術学生になるかもしれない。しかし、彼にとって絵は目的に対する手段にしか過ぎない。... 結果は失敗と失望であり、期待したへつらいの代わりに、嘲笑を浴びせられることになる。

・権力欲は、虚栄心と同様、正常な人間性の中の強力な要素であり、それなりに受け入れなければならない。

・将来に望みを託して、現在の意義は挙げて未来のもたらす中にある、と考える習慣は悪癖である。部分に価値があるのでなければ、全体に価値があるはずがない。

・十八世紀には、文学や絵画や音楽に見識のある喜びを見出せるのが「紳士」の印の一つであった。...今日の金持ちが絵から得る喜びは、絵を見る喜びではなく、他の金持ちがその絵を所有するのを邪魔してやったという喜びである。

・ローラン夫人は、しばしば民衆に対する献身の念から行動した高貴な女性だとされているが、その『回想録』を読んでみるが良い。彼女をあれほど熱烈な民主主義にしたのは、ある貴族の館を訪れた折に召使い部屋に案内された経験であったことがわかる。

・現代人の生活の中にある快楽の絶対量は、疑いもなく、より原始的な社会に見出されたものよりも大きい。しかし、こうもあり得るのではなないか、と言う意識がさらに大きくなってしまったのである。

・内部が分裂している人間は、興奮と気晴らしとを捜し求める。彼は強烈な情熱を愛するが、それはその情念が我を忘れさせてくれるので、思考という辛い仕事をしなくて済むからである。

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