『批評家とは、美なるものから受けた印象を、別個の様式もしくはあらたな素材に移しかえうる者をいう。 』 /* オスカー・ワイルド */
「 批評家とは、美なるものから受けた印象を、別個の様式もしくはあらたな素材に移しかえうる者をいう。
批評の最高にして最低の形式は自叙伝形式にほかならぬ。
美なるものに醜悪な意味を見出すのは、好ましからざる堕落者であり、それはあやまれる行為である」
『ドリアン・グレイの肖像』オスカー・ワイルド
個として優れた作品を生み出した芸術家は、歴史の舞台に多く登場している。
けれども悲しいかな、芸術家を芸術家たらしめるのは、いつだって無知な大衆だ。
あれが人気らしい、これがブームらしいと徒党を組んで、あちらこちらへ大移動を重ねる。
行く先の価値を彼らは知らないが、数の力でもってその土地の価値を、暴力的に高騰させるのだ。
きっと、芸術を理解するのにも才能がいるのだろう。芸術を理解する人もまた、芸術家なのだ。
芸術は往々にして、それ自体で完成している。
だが批評家たる芸術家は、それに別の魂を与え、新たな器に火をともす。
モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。
涙の裡(うち)に玩弄するには美しすぎる。
空の青さや海の匂いのように「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた『かなし』という言葉の様にかなしい。
モーツァルトの音楽を聴いた小林秀雄が起こした文章。
まさにここに、芸術を底に敷いた新たな芸術が生まれている。
ワイルドが言うように、批評というのは難しい。
美を前にして己を語れば本質を損なうし、美に意味を見出せば玉に瑕をつけることになる。
けれども、生まれついての芸術家がいないように、初めから批評家である人もいない。
嘲笑を恐れず、大衆に同化することを恐れ、眼を育てる。
少なくとも私は、そう在るべく努力を重ねたい。
いいなと思ったら応援しよう!
思考の剝片を綴っています。
応援していただけると、剥がれ落ちるスピードが上がること請負いです。