【子易さんのこと】街とその不確かな壁
村上春樹『街とその不確かな壁』の登場人物・子易さんについて考えたこと、思ったことを書きます。ネタバレしていますので、未読の方はお気をつけください。
今作はいつも以上に現実感が希薄だなと、読みながらずっと感じていました。物語の中の「現実」がないような、ふわふわと宙を漂うような、なんとも落ち着かないものでした。きっと「心の中」「意識の中」の物語なのだろうと。
では、いったい誰の「心の中」「意識の中」なのか。
私は、第二部で登場する子易さんだと思います。
彼は小説家志望でしたが諦め、ある女性(観理)と出会い運命的な恋に落ち結婚します。しばらくは通い婚(週末、福島と東京を往き来)をし、妊娠をきっかけに彼の地元(福島)に落ち着き、息子(森(しん))を出産します。しかし、絵に描いたような幸福な生活は唐突に絶ち切られます。
5月半ば、森が5歳の誕生日を迎えた後、彼は自転車で遊んでいたところをトラックに轢かれ亡くなります。妻は息子を亡くしたことで精神的ショックを受け、子易さんを拒絶し、自ら命を絶ちます。この時子易さんは45歳、妻は35歳でした。
その後子易さんは約30年、亡くなるまで独りで暮らしています。
以上の子易さんの過去は「現実」だと思われます。
そして、子易さんの過去は第一部の「ぼくときみの出会いから別れまで」を見事になぞっています。第一部は子易さんが書いた「小説」なのだろうと、私は考えています。
愛する妻と息子を唐突に亡くした深い心の傷が、針のない時計台があり「現在」しか存在しない『壁に囲まれた街』を作り出したのではないかと。
第一部と子易さんの過去の共通点
・ぼくときみがそれぞれの街を往き来する(通い婚)
・きみの妹は猫の毛アレルギー(妻は犬の毛アレルギー)
・きみの夢「一糸纏わぬ姿で妊娠しており、男の人影が見えると、腹の中の赤ん坊が激しく暴れ始める」(妻の妊娠と息子の死)
・5月にきみの心がこわばりついてしまう(息子の死と、妻の精神的ショック)
・高い壁に囲まれた街の「私」が見る夢、意識を殺すということ(自殺の暗示?)
・ぼくが45歳の時、出し抜けに穴に落下し「高い壁に囲まれた街」にいる(子供と妻を亡くした時の子易さんの年齢)
・なにより子易さんは小説家志望だったので、物語を創ることは可能だった
つまり『街とその不確かな壁』の主人公「私」は子易さんの分身であり、この物語に出てくる女性(コーヒーショップの女店主、添田さん、壁に囲まれた街にいる少女)は子易さんの妻が原型だと、私は考えます。
第二部で主人公は、夢に出てきた子易さんが被っているベレー帽を「私のもの」だと感じていますし、子易さんも主人公の心の傷を「我がこと」のように感じ取っていますし。
第二部の山に囲まれた街(福島県のZ**町となっていますが)は子易さんの「意識の中」なのではないか。
主人公は子易さんが作り出した存在であっても、すでに独立した一つの人格を持っており、主人公にとってZ**町は現実の世界です。そして子易さんのように愛する者を唐突に失い、深く傷つき孤独です。子易さんは死者(幽霊)として、主人公を支え助言を与え、自分の図書館を継承してもらいます。ここに居場所を作るように、壁に囲まれた街から出るように。半地下の小部屋も、現実と非現実の境界であると同時に、(子易さん、あるいは主人公の)心の奥の小部屋なのではないか。
また、「腹話術師」という言葉が度々出てくることも気になりました。
「腹話術師に言われるがまま口を動かす人形のように」(P352)
「まるでどこかの熟練した腹話術師が、私の口を勝手に動かしてしゃべっているみたいに」(P489)
「腹話術師の操る人形と同じように」(P564)
この世界は何者かの力によって仕向けられているかのようです。それが子易さんの力なのか、それ以外の力なのかはわかりませんが・・。子易さんとの重要な対話後に、コーヒーショップの女店主とイエロー・サブマリンの少年も出現しています。まるで見計らったかのように。
また私は、子易さんとイエロー・サブマリンの少年は元は一体化していたのではないかとも考えています。子易さんは、主人公の『高い壁に囲まれた街』を、イエロー・サブマリンの少年の意識の中に打ち建てたことを見届け、役目を終えて消えてしまったのではないかと。
この辺りは「イエロー・サブマリンの少年について」で、考えたこと・感じたことを書けたらなと思います。
***
『街とその不確かな壁』を子易さん視点で読むと、深く傷ついた心と意識を慰撫する物語の癒しの力を感じます。愛する者と過ごした日々の「記憶」の大切さも。死後も意識が継続していた子易さんの消滅は、魂というよりも「意識」の成仏なのだろう、安らかに別の世界(もしくは無)に移行したのだろうと感じました。
子易さんと村上春樹はほぼ同年齢でしたね。突然の「死」を迎えることの人生の儚さと、物語は作者の死後も他者の「意識」に生き続け「継承」されていくのだと、そのようなメッセージも感じ取れました。
私は、もしかしたら村上作品では『街とその不確かな壁』が一番好きかもしれません。読めば読むほど深みが増してきます。一つ一つ独立した世界があると同時に、レイヤーのように重なり合い影響し合っています。村上春樹の描く物語の魅力の一つですね。それが今作は突出していると感じました。
まだまだ『街とその不確かな壁』の世界に浸りたいと思います。
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