本読みとチビ助
紙を一枚めくる。
言葉が並んでいる。
私はそれを読んでいる。
言葉はすぐに景色になり、私の目の前にそれが広がる。
私は言葉を、物語を見ている。
夢のようにぼんやりとしたそれは、好きなところに行けるわけではなくて
あれ?あれはなんだろう?なんて考えているうちに、どんどん進んでしまう。
元から弱い記憶力は、数分前の景色の中の言葉を忘れてしまう。
えーと、誰がなんって言ったんだっけ?
けれど真剣な物語の登場人物達は、エピローグにひた走る。
仕方ない。あとで、ダイジェスト版みるよ。
とりあえず、私も彼らのスピードに合わせて走る。
何時間、何日もが、ひとっ飛びに過ぎていくかと思えば
ほんの数分、数秒が永遠のように思える。
書き手の心が透ける。
それでも登場人物達はひた走る。
私はそれを追うように見ている。
けして、手の出せない目の前の景色に、ただ、心が揺れていく。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
そうして終えた本読みのあと、私は鼻をかんだ。
目の前の冷めきった緑茶を口に含む。
香りや渋みが、ここが現実であると教えるから、私はこれを現実なのかと納得する。
「でも、本当かな?」
誰に対して問うわけでもないのに、ただ静かに一人きりの部屋でそう声に出す。
その数十分後に、夜勤明けの夫が帰宅した。
人の気配が一気に部屋に広がり、やはり此処は雑多な現実世界だと実感する。
まぁ、私にだって気配はあるのだけれど、どうやら薄いようだ。
よく、他人にもびっくりされる。
居たの?と。
夫と少し会話した私は上着を羽織った。
夫が
「どこかでかけるの?」
と聞いてきたので
「夜の焼きそば用の豚肉買ってくるよ」
と答えた。
すっかり、うっかり豚肉を使い切ってしまったのだ。焼きそばには、豚肉だ。
そうして、私は豚肉を買いに出掛けた。
ローソンでピクミンの一番くじをやってるとネットで見たから、近くのローソンに行ってからスーパーに行こうと思った。
ローソンへ曲がる道までいくと工事をしている。
通れないわけではないけれど、私はなんとなくその道を避けた。
やはり人のいない道が好きだ。
後ろ側に回る道を行く。
そこは住宅に囲まれた小さな田んぼがあるところで、今は水のないカラカラの水路がある。
おぉ、カラカラだぁ。
と私は茶色い景色に心揺らす。
柔らかな光が土や枯れた草たちにあたり、淡い金色の空気を作る。
遠くなった空はすっかり冬気分だ。
眠たい気持ちになりながら、どこかが当たっているのか音のする自転車をこぐ。
鳥達も遠くで鳴いているなぁ…。
そんなことをのんびり思っていた私の視界の端に何かが入り込んだ。
それは確かに焦げ茶色で、フサフサとしていた。
そして、それはカラカラの用水路に降りていったようだった。
自転車を止めた。
胸がドキドキする。
街中で動物に遭遇できるのは嬉しいからだ。
この字型のコンクリートブロックが敷き詰められ、土管の上にコンクリをひいたような簡単な橋がかかった場所をのぞき込む。
あれ?いない…
のぞき込んだ橋はとても短いから、あちら側も見渡せる。まるんとした石ころがあるだけだ。
それでも諦めず逆側からも、覗き込む。
やはり石がまるんとそこにあって、まさか、あの石が?なんて思えてくる。
いやいや。
相手は野生動物だから、あっという間に逃げたのだろう。
なーんだ残念、残念。
そう思って顔を上げて…気がついた。
埋め込まれたパイプから私を見ている瞳があった。
私は何故か、ヘラっとした作り笑いをした。
そして静かに後ずさる。
あなたに敵意はありませんから、逃げないでねー。という意思表示のつもりだが、傍から見たら枯れた田んぼの脇で自転車を止めた女が、不審な動きをしている。
動物より先に人間に警戒される絵図らだろうなぁ。
そう思いつつそっとリュックのジッパーをさげた。
家を出るとき何気なくカメラを突っ込んだ私、ナイス。
しかし、充電もしないでいたから電池の残量は赤くなっている。撮れない?
いや、ギリギリ数ショット狙える。
私はカメラを構えた。
ほら、こっちを見ている。
警戒心はあるけど、好奇心が勝っている。
……子供かな。大人じゃもう、その場にすら居なかったろう。
こちらをジッと見ている。
丸い耳、詰まった鼻面。
最初に視界の端に捉えた胴体は小さめだった。
私は悩んだ。
イタチってこんな顔だっけ?
フェレットの逃げた奴も考えたが、胴体長くないし(多分)、毛並みの詰まり具合が違う気がする。尻尾も短めだった。
フェレットじゃなくて、イタチだろう。
写真の子は細かくて良質な毛並みに感じた。モグラとか野ねずみのように。
一瞬、オコジョ!!とテンションがあがるも、いやいや、彼らはこんなひらけたとこに居ないだろうと笑う。
なんにしても幼そうだ。
そんなことを考えているうちに、可愛い顔は引っ込んで居なくなっていた。
工事しているのを避けようと思ったら、可愛いチビ助が撮れたりする。
豊かだ。
そう思った。
因みに、ローソンにピクミンくじは無く
『くっそ!これだから田舎はっ!!』
とさっきの豊かな心はどこへやらな台詞を心の中で吐き出した私である。
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本を読んで、写真を撮って、部屋で飲む甘くない炭酸水。
カーテンの向こうの淡い光。
雀やヒヨドリの鳴き声。
夫の寝息。
贅沢な品は何も無い。
受け継いだものも無い。
素晴らしいことが続くわけでもないし
なんなら少し退屈なくらいだ。
けれど、私は知っている。
この何でもない日常が愛おしいものであること。
人間にとって、忘れてしまうほど当たり前の毎日が、どれだけ尊いかを。
私は静かに声にする。
「もう少し、あと少し、ぎりぎりまで……ゆるされるぎりぎりまで…生きていよう」
周りの空気が、ゆらゆらと同意するように揺れた気がした。