100均は。
100均がはじめて実家近くにできた頃、私は小学生であった。
まず近くに出来たのは小さな小さな100均だった。
私は色とりどりのペーパーナプキンを買集めていた。私よりも、母が大喜びで買い集めていた。
お菓子の代わりにペーパーナプキンを強請る事もあった。
母も私も、可愛い柄や綺麗な色が好きなのだ。
我が実家には母が集めたリボン、ラッピング用のビニール袋、折り紙、布、ビーズ等が溢れていた。大抵は使われずに大切に缶におさめられていた。
そういう品物が100円で手に入るのだ。
私が買ってもらったペーパーナプキンは、ペーパーナプキンとしては使われず、ぬいぐるみ達のお布団だとか、穴を開けて簡易のリカちゃんの服だとかにされて使われていた。
そのうち100均は大型化して、そこかしこに出現した。
貧乏な私にとって100均さまさまだ。
生活の潤いが凄い。
お皿が100円って凄い!(私は食器類も大好きだ)
海外の人も100均でお買い物するという。
テレビでたくさん特集される。
すごいぞ。100均。
でも、同時に考える。
どうしてこれらは100円で販売出来てしまうのか。
大量生産、粘り強い交渉、仕事を欲しがる町工場との繋がりなど、たぶん、凄く企業努力して、この値段なのだ。
きっと、私達の知らないところで、多少の無理もあるのだろう。
100均は素敵だと思う。
有り難い。
けれど、流れが、なにか、良くない気がする。
安い事は助かる。
けれど、安いと扱いも安くなる人が多い。
失くしても、壊れても、いいや100均だし。買い換えれば。というのは、当たり前の心理な気がするが、けれど、そればっかりになるのは、なんか、駄目な気がする。私個人的にだが。
どこで誰が作ってくれているんだろう。
これの原価はいくらなんだろう。
輸送費、店の経営費、作り手の工賃……100円……大量に売れることが大前提の世界。
それでいて、テレビではSDGsだのマイクロプラスチックがなんちゃらだの海洋汚染うんたらだのなんだのかんだの……………矛盾してない??
私の家にあるおたまは、10年近く共にしているが100均のおたまである。
100円でこんなに働いてくれるなんて、有難うと思う。
けれど、こういう使い方ばかりだったら100均は破綻するのだろう。
いまや、100均だけではなく、その他多くの小売業が数を売らないとやっていけない状況ではないだろうか。
……セールにならないと売上取れない店とか多々ある。赤札じゃなきゃ買わないって人多いもの。でも、その値下げ分のしわ寄せはどっかが請け負っているのだ。
安く買えている事を、どういうことなのかと考えてみる事は大切な気がするんだ。
高くても長く大切に使って、メンテナンスして、親から子、子から孫へと受け継がれるみたいな、本当はそういう流れの方が自然環境にはいいのだろう。
沢山を消費せずに済むだろうし、職人達の技術も守れるだろう。
けれど、もはや、流行やら映えやらなんやらに支配されている。
税金は上がって、給料は上がりにくく、物にたいしての想像力が働きにくい世の中で、物の向こう側を見るのはなかなか難しいことな気がするし、それを見てしまうと途方に暮れたり、じゃぁ、どうしろってのさと自暴自棄になりたくなる心も在るだろうと思う。
この手の話は繊細だ。
一概にこうだからこうとは言えない。
様々なものが絡まり合い出来ているからだ。
私はその中の一つにすぎない。
それでも、こういう事を考えるよ。というのを書き留めていて流したい。
誰かは何かを思うだろう。
どんな思いも自由。
私は揺れる。
大切な揺れだから、正解は決めないまま、出来そうなこと、出来る事、出来ないことはやらないまま、ふわふわゆらゆらしていこう。
100均にいくと思考が忙しい。
昨日、数年働いてくれた100均のプラスチックのザルをうっかりコンロの熱でとかしてしまって、ちょっと悲しい私の記事でした。
今度は金網のザルにしよ……プラは私のうっかりでとかされてるから。