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『雪渡り』について
昨日の夜、呟きで『注文の多い料理店』の名前を出した。私は、宮沢賢治の書いた話が好きだ。
『狼森と笊森、盗人森』も『風の又三郎』も『よだかの星』も………まぁ色々読んだなぁ。
そんな風に色々思い出していくうちに、国語の教科書に載っていた『雪渡り』を思い出した。
幼い兄妹が、狐の子供に幻燈会に誘われる話。
その当時は、何故か少し恐かった気がする『雪渡り』を、かなり久々に読み直してみた。
なんのことはない。相手を決めつけたり、疑いの目でみず、優しく接したら、楽しく仲良くやれるよっていう話だった。
では、何が恐かったんだろう?
それは『子供』だから感じたものかもしれないと私は思った。
『雪渡り』に出てくる登場人物は皆、小さな子供だ。狐も出てくるけれど、やはり小狐。
大人は子供と小狐の会話の中と幻燈会で映し出される写真の中にしかいない。
幻燈会は雪も凍るような夜に森でひらかれる。
ここで疑問がうまれる…
…?夜?子供だけ?雪も凍るような寒い夜に『狐に誘われたから幻燈会に行く。小さい子しかきちゃ駄目って言われた』なんて言ったら、普通は親から凄く怒られるのでは?行かせてもらえないのでは?親だったら『狐に化かされてるに違いないっ!』とか言い出して、狐に敵意を向けるかも。
そう。この話はきっと子供だけの秘密なのだ。兄達も歳が上だから幻燈会には行けなかった。しかし、お土産を持たせて弟妹を送り出している。さも、当たり前のように。
これは、大人が知らない子供だけの世界のお話だから、無意識にコソコソしているような、見つかったらマズイぞという緊張感が生まれていたのだろう。それが恐さを感じた理由に違いない。
あとは、高学年の教科書で習ったはずなので、多少大人の感覚があったのかもしれない。幻燈会の中休みで小狐がくれるお団子は本当にお団子なのか?(作中では兎の糞を化かして食べさせているという表現がある)と「疑う」心が生まれていたのかもしれない。そうじゃないといいな、そうだったらどうしよう?というハラハラ感も恐さの1つかな。
お話では小さな兄妹は素直にお団子を食べたし、それはとっても美味しかったようだけれど、きっと大人じゃこうはいかない。例え、食べるとしてもあの手この手で団子の詳細を聞こうとするに違いない。
そういう回りくどい事もなく、純粋に「信じる」事が出来る子供だけが参加する幻燈会に私も行きたかったな〜なんて思う。
宮沢賢治の書いたお話は、自然の表現が好きだ。
でも、これは体験していないと想像できないかも。子供の読み物の中に出てくる景色は、出来るだけ本物も見せてあげたい(わたしに子供はいないけれど…)
なんなら映像でもいいし、買えるものなら買ってもいい。本を読んで、本物を見て、何で作り手がその表現に辿り着いたか考える。そうすると世界がキラキラとする時がある。『発見』だ。
大人か当たり前に知っていると思っている事は、子供にとっては『新発見!』
物語を読んでワクワクして、本物を知ってワクワクして、更に自分で考えてワクワクする。
そんな事が、子供達には沢山あるから、どうかそれをめいいっぱい感じられる環境でありますように。
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