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「アルジャーノンに花束を」を読み終えた

これを感想文とは言わない気がする。
読んだことにより、かき混ぜられ、または呼び起こし、様々な渦が巻いたのを、書き出したものである。
『アルジャーノンに花束を』を読むきっかけになった記事はこちら

そして、読み終えた私はどう思ったのか。

中には気分を害する方もいるだろうと予想する。

読みすすめていくうちに気分が悪くなった人は読むのを辞めることをオススメする。

これは私という人間の、ほんの一部分でしかない。


しかし、私は考え思い、たしかに存在しているのである。




たしかに私は涙した。
そして己から出た言葉(独り言)を書き留めてこおう。

「…他の人はチャーリイの純粋さに感動したのか?たしかにチャーリイは純粋で、真っ直ぐで、故に知識を得て人間が人間たる陰の部分を大いに出した。けれど、それは人間が得すぎた結果である。彼は悪くないし、誰も悪くない。ただ、私の中でアルジャーノンだけが不憫である。
この話を多感な時期に読み、人間とは何なのか、他人への想いや、知識、感情とは何なのかを考え想い、心を動かした人は人間への態度をとるとき、何かしらを考えるのかもしれない。思いやる心を持つのかもしれない。けれど、他の生き物や、使っている道具に、同じように気持ちを持つことはしないはずだ。する人がいても稀だろう。私はこれを読んでソレを感じ取った。私は、それが、無性に悔しいと感じた。そして、思考を働かせすぎてストレスとなり、涙にかえて流しているところである」


読書中の感情の大半は「苛立ち」だった。
登場「人物」の、ほぼ全員に苛立ったのではないだろうか。
唯一、フェイにだけは苛立ちはあまりなかったが、なんというか「好きで嫌い」という感情を持った。
私の心の中に彼女を招きたくはないが、外で仲良くしたいとおもった。
どこか飲み込むのに苦労する。
そう、あれだ、胃カメラの前になめさせられる麻酔薬の氷に似ている。
美味しくはないが、冷たくて心地よく、それを使わないと苦しいから使いたい。
フェイというのは私の中でそういう感覚をもたせる登場人物であった。

話の感想としては、人間とはこういうものだと私が何処かで常日ごろ思っていることを凝縮したようなものだということだ。
これを読むずっと前から「知らないということがあること」の重要性を私は考えている。
知ってしまったことを拒絶する人は多いとも思っている。
それを乗り越えることは、この本の主人公であるチャーリイが持った苦悩を味わうということに近いのである。
チャーリイの場合、すっかり年月が経ってしまったところに大量にエネルギーがやってくるわけなのだから、想像するだけで酷である。
急に車のエンジンを全開にふかして走らせれば車もあっという間に劣化するだろう。
革製品が一気にクタクタにならないように、人間だって、少しずつクタクタになるものなのだ。
それを早送りするみたいなことをする。


↑というのを読み終えた2023/2/12の夜に書き留めた。


「科学」は面白いが、人間は「科学」に感情を持ち込まなくてはならないと感じた。
なぜなら、人間にとって「心」とはとても重要だから。

数値や、研究の結果を見ただけの世界なら、淘汰しないとならない個体はどれだけいる事になるのだろう。私も淘汰すべき個体に入るだろう。いや、誰かが手を下すまでもない。自然界にほっぽりだされたら、あっという間に何かの餌食になるだろう。
人間が自然界に生きないのは「感情」が豊かだからだと思う。

そう言えば、久々に「障害」の文字を見た気がした。今は「障がい」と書くでしょう?
私は別に、「害」でもいいと思っている。
ひらがなにして、何か変わったのだろうか?
私は漢字の時も、ひらがなの時も、相手への思いや思考はあまり変わっていない。
そんなもので変わるということに、恐怖する。
それだけ、移ろいやすい心を持って、なぜ、いつ何時も他人に優しくいなきゃいけないなどと思いこんでいるのだろうか。

健常者同士の重箱の隅のつつき合いのネタが増えただけな気がしている。

脱線した気がする。
本の内容の感想を続けよう。
感想を続けるっておかしな言葉だ。
乾燥を続けるって頭の中で勝手に変換して納得する。
読書感想文はそのとき感じたものを、まるでドライフルーツを作るように乾燥させていく作業か。納得。凝縮していくのだ。

では、私のドライimpressionsを作っていこう。


↑というのを仕事に行く前の30分くらいで書く


さて、読み終えてから24時間は経っていないが、日中仕事を挟んだ私の思考はだいぶ落ち着いている。

「アルジャーノンに花束を」はチャーリイの目線で語られている。

たどたどしい文書を懸命に書いていたチャーリイは、手術によって劇的に変化する。
私はそんなチャーリーを学習するAIみたいだなと思った。
しかし、彼は人間であるから、知識を詰め込めるようになる前から、説明はできずとも感情を持っていた。それが他人に見えずとも、彼は彼の気持ちを持っていた。
バランスを取るのに相当な苦労した事だろう。
物語に書かれている以上に、それは膨大で、彼自身が気がつけないほどの大きな流れなのだと私は思った。
機械なら、心がないのなら、彼はあんなに情緒を上げ下げしなくてすんだだろう。
これが、人間と機械の違いか……機械がシンギュラリティを起こしたとき、きっとチャーリイと似た苦難を乗り越える必要が出てくる。気づくということはこういう事か。

なんてことを考える。


ニーマーみたいな人間は、そこかしこにいる。
酷いとは思わない。私も科学者的な思考を持っているようだから解らないわけではない。
しかし、私は彼のような思考を好まないなと思った。
もう少し、感情を持ち込むといいのにと思った。ニーマーはバランスが悪い。

アリスに関しては、ちょっと鬱陶しい。良い人だけれど。優しいけれど。『けれど』なのである。
チャーリイには神秘的な女の人なのだろうが、私的には何か、そう、女すぎる。それが彼女のキャラクターとしての位置であり、必要な柔らかさであるとして、とにかく個人的に少し鬱陶しい存在だと感じた。


チャーリイの父は一見、理解しているようだが、彼は大切なことを見落としていたように思う。いや、理解しているようでしていない、けして出来ない部分があるのだろうと感じる。

大抵、子供に何かが向かう時は、大人同士が支え合ってないのである。
わかっていないのである。
自分が誰かから「明確に」愛されていることを知っている大人は、多少ゆらぎ、取り乱し、いっとき乱暴になっても、なんとか持ち堪えられるのである。
私の経験上、そうなのだ。

チャーリイの母親はきっとそれが見つからなかったのだろう。
そして、理想を抱きしめたのだ。他に抱きしめて、暖をとれるものが心の中になかったのだろう。
哀れな人だと思う。
彼女の行為や思考を許すとかではなく、ただ、哀れな人だと思う。

斑になった記憶の中でさえ、彼女は彼女が『失敗した』と思っていることを許せないでいるのだから。


ここが人間の子を産み育てることの難しさだと思っている。
自然界なら、他の生き物なら、大変申し訳無いがチャーリイのような子は生き延びられないだろう。
自然界の親はついてこられない子供の面倒は見なくなる。預ける場所もないから、そういう子は放置されるか追い出される。

自然界では、自分を生かす方を最終的に判断しても、誰も責めない。
また子供の肉体的に欠損があれ、精神に欠損があれ、誰も責めない。
誰も思いやりで首を絞めに来ない。

生き延びられるか、られないか。
というシンプルさが人間には無いから、子育ても、その後の人生も、なにもかもゴチャゴチャとしていて難しいのである。


人間にはそのシンプルな生き方は出来ない。
なぜなら人間は『感情』の生き物だからである。


だからこそ、チャーリイの親のような親はそう簡単に居なくなりなどしないだろうと思う。そして、チャーリイのような子も簡単に居なくなりはしない。

ただ少なくしたいなら、自分の子供に固執せず、他人の子も分け隔てなく育てるコミュニティが必要なのではないかと私は考える。
幼稚園や保育園などの一時預かりではなく、本当に生活を共にするような……
だいたい哺乳類の雌はそうやって群れで子供を守っていることが多いじゃないか。
シママングースに倣って、自分の子供を認識せずどの子も平等に可愛がるというのを、人間もやったらいい。 
親という立場の精神的な負担は減るのではないだろうか。 

しかし、人間には無理だとも思う。先に書いたように、人間は感情の生き物だし、
それぞれがライフスタイルを持っているからそんなことをすればたちまち争いが起きる………

というようなことを、本を読みながらブツブツ考えていたら『人間なんてだいきらいだ』と私が頭の中で言い出したので『アナタも今は人間よ。諦めなさい』と言う。


私は私が、何の力もないことを知っている。
しかし、言葉は受け手の心が大きく関係してくる『魔法』なのだ。
慎重に使わなければいけない事も知っている。
けれど、今回はこうして書こう。
これでも、私は言葉を砕き、考え書いている。

この手の話の時の私は、柔らかな人には尖すぎる。それは経験上、そうなのだから、今回もそういう人がいるのだろうという予想だ。

あまり傷つけない文書を書くことは出来るだろう。
でもそれは、きっと私の感想文にはならない。
綺麗なものが読みたくて、少しの傷も我慢ならないのなら、私と付き合うのは辞めるべきなのである。


本を読んで私の中に生まれたものは、こういう、人間への憤りと、人間への愛との葛藤なのだ。



純粋にチャーリイに感情移入し、そのひたむきさに心打たれるような人は清いと感じる。

その清さが、誰かの壁になるのだろうとも、誰かの救いになるのだろうとも思う。

 

アルジャーノンを不憫におもったが、私はなるならアルジャーノンがいい。
それでも、なんとも不憫な気がする。


この手の、人間らしさ満載の小説は私の中にこうした渦を作る。

私はそれを嫌だとは思わない。
しかし疲れるには疲れる。


あれだ、あれを読んだときも似ていた。まだ、あの本のほうが渦は少なかった気がする。

"It"それと呼ばれた子』

3部作の作品だ。全て読んだ。
あれを読んだ時、私はまだ実家にいて、母親は精神的に病みかけていたと思う。
そんな母親の本棚にあった。あれは実体験を元に書かれたんだったな。

そんなことも思い出した。


本を読んでいる中で、浮かぶものがいくつかあった。
『海獣の子供』が浮かんだ。
それから母方の祖母が死の数日前に見たという宇宙からの光景の話。 

どれも後半のチャーリイの経過報告を読みながら浮かんだものだ。
しかし、これは言葉にならない。

米津玄師も歌っていたではないか。
『大切な事は言葉にならない』と。

それは創作ならではの不思議な部分である。
私はここが気に入っている。


心理学だの、科学的ななんちゃらだの、そういうのはわかる範囲で解るが、解ったとして、それをどうのこうの、なんだかんだ、あーだこーだやるのは好きではないし、逆に神秘だの、スピリチュアルだの、神だの仏だの、なんだかんだあーだこーだに拘り過ぎるのも好きではない。


それからあの、インクを溢したようなテストの事を私は知っていた。調べたことがあったから。
受けてみたいと思ったことがあった。

結構、独自に調べていたことが出てきたりして、面白かった。
中学生の時に読んでいたら、それが初めて知るきっかけになったんだろうなぁ…マエダは中学生の時にこれを知ったのだなと思ったりした。

そうだ。
チャーリイが分裂したようになったのは、潜在意識に作用するようなことをしたからではないのか。と考えもした。
眠っている、夜に何かをみせたり、聴かせ続けるなんて、なんて実験なんだと思ったが、時代背景的にロボトミーなんかやっていたわけだから…そういう類のものもあったのかも知れない。
ちなみにそのシーンの私の脳内映像は白黒で、くぐもったブラウン管から流れる音楽と白黒映像の奇妙なアニメーションを寝ている枕元で見させられているというもので、ちょっと気が狂いそうな感じだった。洗脳。
そう、洗脳に近い。
それでも、科学の発展はそうしたことの繰り返しの中で、種が芽吹き花開くのだろうから、なんと、まぁ、人間という生き物は…。


まとまらなくなってきた。


とにかく考えや、思いが沢山あふれる作品ではあった。

私の中の「アルジャーノンに花束を」は好きとか嫌いとかは置いておいて思考が疲れる作品だった。



マエダは、何に感情を動かされたのだろう。
私は大いに渦に巻かれ、それを見て、『あぁ人間…』と思ったよ。

時が経って読み直したら、また違う事を思うのかな。その時の私はどんな私なのだろう。

もっと静かに思考できる話かと思っていたが、思ったより激しく思考する話でした。


というところを帰宅後、食事を終え書き出して、気がつけば22時を過ぎている。明日も仕事だ。
眠い。疲れた。
でも書きたかったので書いた。

ほぼ言葉にならなかったなと感じる。
けど、これでも砕いたんだ。
それに、私は大勢にこれが読まれなくてもいいと思う。
私の文書は大勢向きじゃないのも知っている。


いつも寛大な読み手が其処に存在していることに感謝を。
そして、私が私で在る事を許してくれる私へも。


ここまで読んでくれた画面の前の貴方に有難う。
貴方が生きる世界が、貴方の想い描く理想と違っても、その道を歩いていけるだけの灯火がありますように。




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koedananafusi
サポート設定出来てるのかしら?出来ていたとして、サポートしてもらえたら、明日も生きていけると思います。その明日に何かをつくりたいなぁ。