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私がヴィーガンをやめた理由

※この投稿は過去のInstagramから引用しています。


先日、友人の誕生日に牛肉を一年ぶりに食べたのをきっかけに、"絶対に食べないもの"を無くすことを決めた。

今の私は、出されたお肉も、ジャンクフードも、
添加物も状況に応じて食べるし、
食べる際には心から感謝して、楽しむ。

もちろん出来る限り気にかけること、
口にするものをしっかりと知ることはやめてない。
家で動物性を使う、買うことはないし、
畜産が環境問題に与える影響は事実としてある。

ただ、枠を作ったり、ルールを設けたり、
何かを極端に拒絶や否定したり、カテゴライズしたり、属したり、分けたり、名乗ったりすることをやめた。
愛だ善だと正義を振りかざして行きすぎた先に、
ろくに知りもせずに他人の職業や選択を否定し、
悪を生み出し、偉そうにジャッジしてる自分がいた。

私は畜産農家にも、屠殺場にも行ったことがない。
ネットで出回る映像と、Netflixのドキュメントだけ
ほんのそれだけのソースで
畜産業も屠殺場で働く人も、肉屋も、
それを消費する人たちも、心のどこかで
嫌悪し、否定してた。

愛から始めたはずだったのに
いつの間にかどんどん善悪に分たり、
二元論の思考に陥って、思想が偏り、
盲目になってることに気付いた。

何かを"愛"だと盲信するとき、
対するものを"憎"にしてしまう。
これは潜在意識レベルでの話。

既に調理されたものを避けて食べたり捨てることの
何が愛なんだろう?
愛を込めて作ってくれたものを断ったり
ゴミにしてしまうのは愛なのか?
自分のこだわりを曲げられないだけのエゴじゃないのか?

身近な友人を一人残らずヴィーガンに変えて
同じ敵を持ったかの様に仲間意識を得ることが、
お肉を食べる人がまるでまだ無知で未熟な人とでも
言うような会話が、全てが違和感に感じ始めた。

ヴィーガンの落とし穴に落ちて、闇を見た。

フレキシタリアンとかも名乗りたくない。
もう何も、カテゴライズをしたくない。

それでも、菜食が人体にとっても
環境やフードロスにとっても
確実に良い選択なことに変わりはないし、
現代のお肉の生産方法は確かに不自然だし、
食から繋がる様々な問題には目を瞑らない。

ただもし、私がもう一度ヴィーガンを名乗るとしたら
畜産農家にも屠殺場にも行く必要があるし、
これについてはもっと時間とエネルギーをかけて
知る必要があるともっと重大なトピックだと思った。
その上で責任を持って発信する必要もあると。

指先一つで得ただけの知識と正義を振りかざすのは
あまりにも盲信的で未熟に感じた。
私はまだ何も知らない。

その時はもう少し先になると思う🙏🏼🌿

2021.3.19

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福井なな
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