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【傲慢と善良感想】真実はなぜ被災地へ行ったのか

なぜ真実は被災地へ行ったのか?
『傲慢と善良』を小説そしてそれを原作とした映画として観て感じたのは上記の疑問だった。今作は小説、映画ともに婚活アプリを通じて出会った男女が、結婚間近にして彼女が失踪することで始まる恋愛ミステリである。(映画ではミステリ要素はかなり少なくなっているが)
物語の中で明かされる真実の失踪の真相は、架と結婚するためストーカーの嘘をついた真実がそのことを架の女友達に言い当てられたことを機に自らの意志で家を出ていた。そして家を出て行く場所のなくなった彼女がたどり着くのが、被災地でのボランティアである。(小説では東日本大震災の東北が舞台であり、映画では豪雨災害を受けたと思われる地が佐賀県で撮影されている)

真実は被災地でのボランティアを通して、自分の「傲慢さ」に気がつき、架との関係性をやり直すに至る。

ここで被災地でのボランティアは、真実の実家のある閉ざされた前橋や架と出会った東京━━開かれて洗練された憧れの地である一方、架の女友達が象徴するような腹の探り合いばかりの地━━と対比され、真実にとっての外部として彼女を癒す。そしてきっと架と結婚した後は彼の会社のある東京へ戻って行くのだろう。それはまるで自分探しのためにボランティアに興じる大学生のように。

映画では新海誠が代表的なように、被災地は、その痛みや醜悪さ(私たちの)罪を無害化された形で、日本映画の中では私たちの心を癒すだけの背景として扱われている様に思う。
『傲慢と偏見』の小説や映画も同様に真実が自分の過去と向き合うための背景としか被災地は機能していない。小説と映画で被災地を被災の背景を完全に変更してしまっても物語上の機能は何一つ変わらないのがその証拠だ。
被災地におけるボランティアは、その主題ではないのだから背景化して当然だと思われる人もいるかも知れない。けれど、私はこの作品こそ真実のボランティアを、ボランティアを通じて彼女が変わる過程をきちんと描く必要があったと考える。なぜならボランティアほど、この作品のタイトル「傲慢と善良」を突きつけられる活動はないからだ。

私自身、大学時代、ボランティアの経験がある。
ボランティアをしているというと周りからは大抵「真面目だね」「えらいね」「“良い子“だね」などと言われる。そう「善良さ」を感じさせるのだ。だけどその善良さだけではボランティアはやっていけない。ボランティアはその定義からして、お金というわかりやすい報酬が得られない活動だ。だからこそ、自分を善良だと思う多くの人たち━━自分が欲しいものが何かをわかっていない人たち━━は、その中で暴走する。自分が感謝されることがやりがいと感じていても、それに自覚的でない人が、短期的に自身が感謝され必要とされるために、長期的な復興と矛盾する支援をしてしまったり、直接感謝されることのないけれど必要な活動へコミットが疎かになったりするのがその例だ。目の前の人たちの長期的な回復を、自身の短期的な報酬のために遮る彼らの姿を傲慢と言わずになんというだろう。

「この小説はヘビーなのである。
これは恋愛や婚活にまつわる紆余曲折が描かれているから━━というよりも、何か・誰かを“選ぶ“とき、私たちの身に起きていることを極限まで解像度を高めて描写することを主題としているからだ。」

朝井リョウは解説にて上記のように語っている。でも、もしそうなのだとしたら真実が自分を変えるきっかけとなった被災地でのボランティアにおける傲慢と善良の経験を一つでも描くべきだったのではないのか。実際のボランティアは自分を必要としてくれる現場と優しい仲間たちに癒されるようなユートピアではない。仲間たちや現地の人とも葛藤をし、自分の力の小ささに絶望しながら、結果的に自分が何ができて、何が欲しいか、どうありたいかを知っていくような営みだ。被災地での葛藤を一つも描かず、ただの背景として扱ったことでこの作品は婚活における現代人の自意識を描くにとどまってしまったように感じる。

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