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令和のヒーローは死にたがる
昨年完結を迎えたマンガ『推しの子』、そのラストを読んで多くの読者と同様に疑問を持った。
『推しの子』はアイドル星野アイの息子として転生した元オタク星野アクアが目の前で「推し」であり「母」であるアイを殺され、その黒幕である自身の父に復讐する物語だ。ラストでは、主人公星野アクアが妹ルビーを守るために黒幕カミキと心中し死ぬが、この終わり方がさまざまな議論を呼んだ。
なぜ読者の中で違和感を抱く人が多かったのかというのは明白だ。そもそもアクアは母の死を目にして、父への復讐だけを使命として自らの進路も恋愛もそのための「道具」にするような自罰感情の持ち主だった。だが、物語の中での出会いを通じて、次第に復讐という使命以外の自分の人生の可能性を見つけていく。それがあかねとの“共犯“関係や有馬かなとの恋愛、妹ルビーのドーム公演を見届けること、心臓外科医になること(転生前も母への罪悪感から彼は産婦人科医になったことが語られる)、育ての母ミヤコを母と呼ぶこと、産みの母であるアイが願った彼の幸せなどであったはずであり、アクアの成長譚と捉えると、物語の構成としては、彼が死なずに自分の人生を生きていく方が自然である。また、この作品のメッセージとしても、その場に必要な駒・キャラクターとして子どもたちの心と人生を犠牲にしてきた芸能界━━本当の黒幕━━への批判としては、彼が「普通の18歳の少年」として生きていく姿を描くことが何よりのアンチテーゼであったはずだ。
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作者はそのことを理解している。だからこそアクアの死に際、ファンタジー要素の強く、蛇足にも思えるツクヨミというキャラクターを出してまで、アクアの人生をコマに描き、1人の子供だと語らせている。けれどこのメッセージと、結局彼が復讐から妹ルビーを守ることへ使命を変えただけで、使命に身を委ねて自分の人生を生きることなく自死した選択は矛盾する。読者が抱いた違和感はそこにある。(わざわざ想像の中で描くなら、実際にその人生を生きるという結末の方が自然だ)
だとしたら考えるべきは、物語全体のメッセージも、各キャラクターとの伏線も、読者からの評価も捨てて、それでもアクアが死ななくてはならなかった理由についてだろう。
死に向かう物語の主人公たち
時を同じくして昨年完結を迎えた作品として『推しの子』と並ぶのが『呪術廻戦』だろう。この作品の主人公虎杖悠仁も、重力のように「死」に向かっている。彼は、冒頭から死刑になり、祖父や他の友人や呪術師たちの死を見ながら「死に方」「死に様」のために戦う。そして中盤彼は呪術師として戦う意味を問われて以下のように語る。
もう意味も理由もいらない
この行いに意味が生まれるのは俺が死んで何百年も経った後なのかもしれない
きっと俺は大きな••••••何かの歯車の一つにすぎないんだと思う
錆びつくまで呪いを殺し続ける
それがこの戦いの俺の役割なんだ
つまり自分の意志ではなく、外から与えられた何か大きな使命のなかの一つの歯車として彼は戦い、少しずつ死の重力へと引かれていっている。
令和の芸人だって死にたくなる
もう一人少し違う例を出してみようと思う。それは同じく昨年末、漫才大会M−1で歴代初の2連覇を達成し話題となったお笑いコンビ令和ロマンについてだ。
令和ロマンのボケ高比良くるまはM−1の一度めの優勝後、『漫才過剰考察』という本を書いている。中身はお笑いというジャンルの彼なりの分析であるが、1箇所、違和感を抱く文章があった。それは前回のM-1で初優勝したあとの感想として書かれた「希死念慮が止まらなかった」という全く笑えない一文だ。
著作の中で繰り返し語られるのは、彼が常に自分が笑いをとるためではなく、M-1自体が盛り上がり、面白くなるために、その場に必要な役を演じているという話だ。その考え方と客観的に自分がどう見えるかを把握する能力は、後半の霜降り明星粗品との対談を通してこれまでの芸人とは異なる彼の異質さとして示されている。上述の「希死念慮」はシンプルな実力ではなく見せ方でM-1の舞台に立った何のアイデンティティもないくるまが、M-1を盛り上げることを使命として、引き立て役として振る舞っていたら、思ったより盛り上がらず優勝してしまったことを嘆く表現として語られていた。
アクアと悠仁とくるまの希死念慮
3人の希死念慮はどこからやってくるものなのだろうか。少し補助線を引いてみたいと思う。
このゲームにおいては、株式会社という不死の生命をもつ存在──倒産することはあっても、自然死することのない、つまり永遠の時間を生きる存在──が設定される。そしてこの不死の存在がたどりうる未来の損益が、現在の価値(株価)に計算を経由して置き換えられる。当然のことだが、速く利益を生むシミュレーションが成立すると、その分だけ価値は高くなる。つまり予測される未来におけるプレイヤーの生み出しうる価値と、成長の速さ、そしてその事業が実現する成功率との掛け算で価値が決定される。 その結果として、株式会社というプレイヤーは、そしてこの不死の生命を操る人間たち──Anywhereな人びと──はその未来が予測可能、説明可能である「かのように」演じることになる。これが未来の価値を現在の値付けに反映する、ということだ。
上記の文章は同じく昨年末に出た評論家宇野常寛による情報社会論『庭の話』の一部だ。補足として説明するとAnywhereな人びとという表現は、マイケル・グッドハートが提唱した「どこでも」生きていくことができる今日のグローバルな情報産業や金融業のプレイヤー、クリエイティブ・クラスと、Somewhereな人びと、「どこかで」しか生きられない二十世紀以前の、製造業を中心とした旧い産業に従事しローカルな国民国家の一員としての意識をもつ人びとという分類を引用している。
ここで述べたいのは、3人は上記のAnywhereな人びとによるゲームを擬似的にプレイしていたと言えるのではないだろうかということだ。『推しの子』で描かれていたのは、18歳の少年としての自己ではなく、俳優/タレントとしての「星野アクア」の価値を上げる評価ゲームを勝っていく物語であり、それは少年アクアの死後も映画への評価として「年間動員数6位」を記録されたことからも読み取れる。また虎杖の自らを「歯車」として呪術師として戦うことに意味も理由も求めない姿勢も、ただ殺した呪いの数だけを増やし続けるゲームと言えるだろうし、令和ロマンくるまの姿勢は、審査員からの点数=承認を増やす競技において勝つのではなく、M−1というプラットフォーム全体の動員を増やすことを目的としているという点でまるでSNSプラットフォームを運営するグルーバル企業と同様のゲームをプレイしているとも言えるだろう。
だとすると、彼らの「希死念慮」とはすなわち自らの身体への無関心さに他ならない。上述の通り、市場におけるゲームでは自己の身体を超えて株式会社などの不死の存在によってプレイする。そのため、例えば星野アクアという少年が死んでも、俳優「星野アクア」の評価は死なないし、令和ロマンが滑ってもまさにそのことによってM−1自体が盛り上がることはあるし、虎杖悠仁が死んでも呪術師による呪い退治は続いていく。(スティーブ・ジョブズが死んでもAppleが続いていくように)
なぜ星野アクアは死んだのか?冒頭の問いに答えるとすると、それはアクアも作者も、彼の身体の生死に無関心だったためと言えそうだ。もともと転生している彼はアクアという身体に愛着を持てていない(同じく転生した妹ルビーは、前世が病気で自分の身体をうまくコントロールできなかった影響から逆にルビーとしての身体によってアイドルができるようになっている)し、『推しの子』の原作と作画で分担をして描かれており、原作者赤坂アカは星野アクアを直接描いていないことによって、その概念上のキャラクター以上に彼の身体への関心が薄かったことも影響しているかもしれない。一人の少年がたとえ物語の中であってもその生命を止めるということの痛みを無視したがゆえに、星野アクアというキャラクター自体が空疎になり、彼に身体を感じていた読者たちに大きな違和感を呼んだのだろう。
どうしたらアクアは死なずに済んだのか/なぜ虎杖とくるまは死なないか
ここまで考えたら、最後にアクアが死なずに済んだ方法についても考えたい。そのためには、死ななかった残りの2つの例『呪術廻戦』と令和ロマンについて考える必要があるだろう。(ちなみに伝わっていると思うが、令和ロマンくるまの希死念慮とはあくまで概念上の現象として検討しているので、本当に実在する高比良くるま自身の考えや感情はここでは関係ない)
宇野は『庭の話』で上述のゲームから抜け出すために、SNSアカウントのような均一な社会的身体から脱ゲーム的身体の獲得が求められることを述べ、そのために見田宗介の言うところの、自己保存(エロス)と自己解体(タナトス)の2つの欲望のうち相対的に弱い同種の人間ではなく事物とのコミュニケーションによる自己解体(タナトス)の欲望を強化する場としての「庭」あるいは行動としての「制作」について論じている。ただこれまでの3人に生じた希死念慮を踏まえると、こう整理できるのではないだろうか。『庭の話』で特に課題視されているSNSプラットフォームの承認の交換のために暴走するSomewhereな人びとには自己解体の欲望が必要で、株式会社など自己の生命としての身体を超えて評価されるものが残るAnywhereな人びとには自己保存の欲望が必要だと。ただし、ここでAnywhereな人びとに必要な自己保存の欲望とは、単なる人間とのコミュニケーションを指さない。そこに必要なのは、自己という限界のある身体である。
令和ロマンは漫才師である。「笑い」とは人間同士のコミュニケーションでありながら、極めて身体的な行為だ。彼の著作『漫才過剰考察』で分析されるのは、客層、漫才の環境(テレビセットと舞台の違い)、流れ、自分の服装や動き、身体的特徴等によって笑いの起き方や何が受けるかも全く異なってしまうということだ。そしてどんなに分析しても、勝率100%にはならない。そう人間同士のコミュニケーションも、一度SNSを出て身体を持てば、事物と同様にひどく多様で、私たちを脅かしうるのだ。
また『呪術廻戦』にて虎杖はその最終盤、冒頭の「死に方」にこだわり、大きなものの歯車として役割を全うするという自身の考えを転向させている。その場面で彼は、故郷を宿敵宿儺と一緒に周り、その事物に触れている。
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虎杖は、敵である両面宿儺との戦いの最終盤、自らの力で擬似的に故郷である仙台を一緒に回り、場所にまつわる記憶を共有し、そうした記憶のかけらがあるだけで人の命に価値はあると語る。それは「生きる」というたった3文字の記号を脱して五感や感情、時間による変化、思い通りにいかないことも含めて自分や他者の身体への回帰を促す言葉だろう。だからこそ、長い時を生き、多くの人間の身体を移ってきた宿儺は、その意味を記号として理解できはすれど、ただ一つの身体として何かを感じることができないのだ。
上記を踏まえて、『推しの子』の物語を振り返ると、母を殺した黒幕への復讐という大きな目的の駒として自分も含む全てを利用してきた星野アクアには、「人間関係」しか残っていない。例えば演じること。極めて身体的なこの行為も、アクアはメタ的に何が作り手あるいは観客に求められるかと記号として振る舞うし、『推しの子』という作品自体も、演技の巧拙をその表現で身体的に表現しようとはしていない。あるいは、星野ルビーとの関係性についても、彼女のダンスやパフォーマンスといったアイドルとしての魅力については語られず、守るべき妹か元患者の生まれ変わりとしかアクアは彼女を見ていない。(その証拠に彼は死に際、アイと患者のせりながアイドルとして一緒に舞台に立つ姿を夢見ている。「星野ルビー」としての身体にアイドルとして魅せられていたら考えられない想像だ)そしてアイドル星野ルビーのオタクだったなら、どんなに死んだ方がいい理由があっても、生きてドーム公演を見にいく理由になったはずなのだ。
オタクとは、死んでも推しのライブには行くものだから。