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シン・ギョンスク著『母をお願い』

少し前、KBOOKラジオで紹介されたシン・ギョンスク著『父のところに行ってきた』を読んで、韓国では2009年に発表され大ベストセラーとなり、2011年、日本でも待望の翻訳が出たという同作者の『母をお願い』を読んでみた。

田舎から上京していた父と母。
ソウル駅で電車に乗る際に父とはぐれてしまってから、母の行方がわからなくなってしまう。
四章にわたって、長女、長男、父、次女、母と視点が移り、しかも母以外は第三者がそれぞれの思い出や関係性を語る。
読み始めてしばらくは、家族のために己を犠牲にしてきた美しい母の愛の物語なのかな、と少し引いた気持ちで読んでいた。しかしだんだんとそんな単純な作品ではないことがわかってくる。

第三章、父の視点で母が語られる章では、一度も妻を顧みることなく、自分勝手に生きてきた夫の後悔が語られる。あまりにも日常になっていた妻の存在、妻にどれだけ自分が依存してきたか、無意識にその存在を愛していたかを、空っぽになった家で一人、思い知らされる。

第四章の次女の視点では、「…オンマを端からそういう人だと思い込んですごしてきたのだろうか。…オンマはほかの人たちの前でどんなに孤独だったかしら。誰からも理解されないまま、ひたすら犠牲に甘んじていなければならなかったなんて。そんな理不尽なことがどうしてあり得るのかしら」と、母が毎日台所で料理の支度をすることも、畑を耕し作物を育てていたことも、すべてを当然のごとく享受してきた自分たちの愚かさを次女は語る。
なぜ母はそうせざるを得なかったのかを、考えたこともなかったこと、
母がいなくなって初めてそのことに気がついたこと…。
母が家族の日常を機能させるためにしてきたこと、それらすべてが自分たちの肉体、精神に積み重なっていることを、初めて顧みる家族たち。
母の話を聞いてこなかったことを後悔し、突然会えなくなったことに絶望する。

第四章の途中からは、初めて視点と語られる者が一致する。それは、オンマ、母だ。
母がどんな思いで何十年も母であったか、母が一人の人間であったこと、母にも家族以外の世界があったことが語られる。
「お母んにはわかっていただろうか。あたしにも生涯を通して、オンマが必要だっということを」。孤独で不安な母という立場を、この一文が語っているように思う。

物語のエピローグ、長女はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂のピエタの像を前にして、聖母マリアに母を託す。母に哀れみを、母に愛を、と。
祈ることしか、長女にはできなかった。
聖母マリアの上に横たわるキリストのように、母が愛に抱かれて安らかであるようにと。

作者あとがきに、「30年ぶりに母と半月ほど過ごした」日々の中で、「母の傍らに体を横たえ、朝の訪れを待ち受けながら、母の話を聞いていられる幸運を、自分が味わっていること。その幸福感がこの小説をかきつがせてくれた」とある。
それを読んで、あまりに悲しい物語が救われたように思ったのと同時に、私にとっての母の存在と重なった。

私は今42歳。
もう親に甘える歳でもないのに、いつも母に頼ってばかり。
母が元気でいてくれるから、私は子育ても仕事もなんとかやってこれた。
母がいつもいてくれること、その事が私を無意識に励ましてきた。
実家に帰れば、ずっと私と母は話をしている。
一年に一回しか直接会えない。だからその一年で募った話を次々と話す。
一緒に韓国ドラマを見たり、買い物に行ったり。
一時期、実家に帰ることがおっくうになったこともある。時間もお金もかかるから。
でも、両親が歳を取ってきて、いつまでもこれが続くわけじゃないことを感じ始めてから、直接会えるときに会っておかなければ、という思いを強くしている。

人によっては、母性を美化し強調した物語に感じるかもしれない。
でも母親以外の存在でも、母性を感じる相手は人によって様々なのではないだろうか。もし、いるのであればこの小説を通し、その存在を感じてほしい。

なぜなら、母親という存在やそういった「母性」は、当たり前にあるもののように扱われてきたから。

改めて、私自身の母への愛を感じさせられた一冊。
『父のところへ行ってくる』を思い起こすと、さらにこの家族が立体的に見えてくる。決して韓国の歴史について強調した作品ではないが、その時代の苦難を思わずにいられない。

もうすぐKBOOKフェスティバル。
ハン・ガンのノーベル文学賞受賞もあり、今年はさらに盛り上がりそう。
キム・チョヨプさんと、チョン・セランさんの対談など、目玉企画が目白押し…。それに向けて読みたい本もたくさんで忙しいけど、楽しみで仕方ない。

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