連載小説:『七瀬は誰にも探せない』第十二話
第十二話:『海月が泳ぐ夜に』
ゆっくりと座席に体を沈めると、今まで感じなかった体中の痛みが疼きだす。額にそっと触れると、傷の周りが熱を持ち腫れていた。今は切れた痛みよりも、ぶつけた痛みがじわじわと広がり、傷口に心臓があるかのように脈を打つ。アタシは痛いのに嬉しいという妙な気持になっていた。人が見たら痛々しい傷以外のなんでもない。ただ、七瀬と同じ場所に傷を負っただけのことだった。が、疼く痛みがまるでアタシの中に七瀬が宿ったように感じられ、嬉しくなっている自分がいる。
ー アホだ、アタシ。
馬鹿げた考えと知りつつも微笑む口を大きく開け、鎮痛剤を放り込んだ。痛みが和らぐにつれ、張っていた気も揺るいでゆき、いつしかアタシも眠りに落ちていた。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
悲痛とも取れる大きな叫び声で飛び起きた時には、薄明の空が美しく海上を彩っていた。体を起こそうと手をつくが、体中が軋んでうまくいかない。小さな動きを取ろうとするだけで、体中に痛みが連鎖しながら走って行く。声がどこから発せられているのかと、やっとの思いで首を左右に動かすと、窓の外を駆け過ぎる人影が目に入った。
ー 七瀬?
人影としか分からない程度の暗がりの中を、叫びながら浜辺へと走って行く。アタシは咄嗟に追いかけなければと思った。動くたびにあちこちに手を当て自身を庇いながら外に出る。足を出すこともうまく出来ずに、引きずるように浜まで降りた。先を行く影は、洋服を闇に脱ぎ捨てながら転がるように波の方へと向かっている。アタシは正体が分からない人影を必死で追いかけた。どこかでそれが七瀬かもしれないと感じていたのだと思う。車を振り返ることもせず、ただ人影に追い付くことだけを考えて、身体に動けと命令する。
ほとんど服を脱ぎ捨て、波の前で地面に蹲る影にやっと追いついた時、すすり泣きの合間を縫って零れる声に息をのんだ。
「おかぁ……。。。は、僕は、どうして……」
助けを求める迷い子のように、途切れ途切れに母を呼んでいた。地面の砂を両手で握りしめ、叫び声と共に狂ったように繰り返し波に投げつける。荒々しく息をする背中が大きく上下し、肩まである髪が乱れながらふわりと藍色の空に影を落とす。
「陽、、、介?」
振り返った人影。背後から抱きしめていたアタシには見えていなかったはずの七瀬を、この瞬間真っ直ぐに見ている気がした。双子であろう陽介の泣き顔にデジャヴを見る。徐々に歪みゆく表情に、心が崩壊寸前にある七瀬を連想させられてしまう。陽介は混乱と動揺をアタシの目の前でとめどなく流し出し、アタシの心をきつく締め上げた。広い砂浜に落とされた子猫のようにアタシを見上げ、そして自身の身体に恐る恐る触れる。
「なんで、僕……なに、、、これ?」
自らの震える両手を眺め、その両手で顔を覆いながら、声を荒げた。誰もいない砂浜に、陽介の雄叫びが響き渡る。アタシの存在は陽介にとってなんの意味も持たなかった。なんで、なんで、なんで、なんで……。呟くように繰り返す陽介は、完全に目の前にあるものから孤立していた。海、空、砂に闇。波音に潮風、そしてアタシの声さえからも。
「もう。。。イヤ、だ。。。」
アタシは何もできずにいた。
「もう!!嫌だぁ!!!」
陽介は空を仰ぎながら放った直後に、よろめきながら海へと歩き出した。
「ちょ……!!陽介!!」
棒立ちだったアタシの背中を何かがトンと押した気がした。陽介が歩み出したと同時に、アタシの体も波の方へと流れ出す。真っすぐに水平線を見つめ、白波を割り進む陽介の後ろ姿に手を伸ばす。掴めそうで掴めない。届きそうで届かない。脛までだった海水が、膝に、腿に。アタシの腰まで達するまで、そう時間はかからなかった。それでも陽介が止まる気配はなく、必死の思いで海中の砂を蹴り、陽介に飛びついた。陽介の前方を塞ぐように立ちはだかった時には、アタシは胸まで水に浸っていた。どうすればいいのか分からなかった。ただ、陽介をこれ以上海に進ませてはいけないと必死だった。
「待って!!待ってよ!!」
心臓が高鳴り震えていた。何を言えばいい?考えている間にも、陽介はアタシを振り切り海へと吸い込まれていく。アタシの力など陽介には敵わないのは一目瞭然だった。降り解かれ、突き放されて、海中に何度も身を沈めてもアタシは陽介にしがみ付いた。
「放して!!僕はもう、いやだ!」
アタシは、幾度床に叩きつけられても親に歯向かったことはなかった。が今、繰り返し突き放されても決して陽介を離してはいけないと、精一杯の抵抗を何度も何度も繰り返している。顔まで迫る海の中で、アタシは陽介の胸を押し、岸へと押し戻そうと藻搔いた。陽介の力はアタシを振り払うたびに強くる。もう陽介には海の深み以外何も見えてはいなかった。それでも離そうとしないアタシの顔に、陽介の肘が当たった瞬間、アタシの抵抗はあっけなく終わった。
海に漂う海月のように、力なく浮くアタシの身体。遠のく意識の片隅で、陽介が水をかき分ける音だけが聞こえていた。