連載小説:『七瀬は誰にも探せない』第八話
第八話:『影の人』
どうやって車に戻って来たのかも、アタシは覚えていない。助手席に体を丸めながらいると、いつの間にか外は暗くなっていた。泣き腫らした両目は重く、涙を拭いきったジャンパーの袖口はぐっしょりと濡れている。思考を巡らすこと、感じることに想うことも、いつもだったら感じる空腹感でさえも今のアタシの中には存在していなかった。ただ丸くなってじっとするだけのアタシがいる。哀れみに同情、そんなものがアタシの心に生まれる隙間がないほどに、ただ押し寄せる激しい心の痛みから自身を守ろうと、アタシの心は必死だったのだと思う。それは自分の痛みではなく、七瀬の痛みであったことも分かっていたはずなのに。アタシの中に七瀬を想う余裕すらなかった。
一番星が空の上に輝くのをフロントガラス越しに見て、願いをかけようとふと思った。
ー 強くなれ、スズ。七瀬の為に。
その時初めて、七瀬の存在が蘇った。
「な、七瀬?」
ずっと蹲っていたフロント席に、七瀬の姿がないことにやっと気づいたのだ。我に戻ったアタシは辺りを見回すが、この狭い空間に七瀬がいないことは分かり切ったことだった。きっと後ろにいる。そう思ったアタシは、そっとカーテン越しにドアに手を置いた。
「七瀬。ごめんアタシ。。。ごめんな」
七瀬に聞こえているかは分からない。が、コトッと奥で音がした。
「七瀬の辛い過去を、受け止めきれなくて、、、ほんとにごめん。母親のことも、陽介のことも、ルイのことも……七瀬のことを一番に理解してあげなきゃいけないのに。陽介を起こすために、アタシも力になるから」
言い終わったその時だった。
「陽介を、起こそうとしてんのかアイツ」
ゆっくりと響く低い男の声に、アタシは咄嗟にドアに置いていた手で口元を覆った。
ー ルイだ!
一瞬で分かった。思わず左手を右手の上に重ねるように自分の口を塞ぐ。
「お前……誰だ?」
ドアが激しく揺れたが、内側の鍵が音を立てると舌打ちが聞こえた。
「アイツ、鍵かけあがって。まぁいい。どうせアイツの犬みたいなもんだろ」
鍵。今の今まで七瀬はアタシを締め出していたと思っていた。扉の向こうは、七瀬が見られたくない空間だと。が、もしかすると七瀬はアタシを遠ざけていたのではなく、ずっと守っていたのかもしれない。この時初めて重い鍵の存在が有難く思えていた。だが、鍵がいつ壊れるかも、ルイの力がどれほどのものかも分からない。アタシは震えながらダッシュボードまで身を後退させていた。
「お前が誰だか知らないけど、アイツが俺らの話もしたって?なにべらべらしゃべってんだかあの女は。。。」
どかんと扉に寄りかかり座ったようだった。後部の窓が開かれる音がすると、カチッとライターを灯す音が鳴る。ふぅーと吐かれる息、と同時に助手席の窓にうっすらと不気味な煙の影が通り過ぎた。
「いいこと教えてやるよ。陽介は起きない、絶対に」
沈黙の後にもう一筋の煙が窓の外を通る。
「俺が起こさせない。陽介には消えてもらわないといけないんだよねぇ……」
ー 消えて、、、もらう?
けたたましい音を放ち、ルイは運転席側の仕切りを思い切り殴った。突然揺れ響いた音に、アタシの体は硬直した。
「あーっ、アイツ気づいちゃったのかな。。。」
堪えるように笑うルイの声は、静かな夜を切り裂くような甲高いものへと変わっていった。七瀬と陽介を守って来たはずのルイに、今のアタシの中で警告音が鳴り響いている。危険だ、と。
「俺のお陰で自由になれたっていうのに。。。あの酔っ払いにアイツ犯させちゃえばよかったかな」
あの酔っ払い?海で溺れた男、それともコンビニの大男のことだろうか。まさか、ルイが昨夜?七瀬はルイと関わるなとアタシに言った。が、ルイを知らなければ、アタシに出来ることは無に等しい。
「陽介は、あんたの弟だろ」
口を覆っていた両手を拳にかえた。この状況は父親に殴られていた時と全く同じだった。言いごたえも反抗もせず、ただ終わりが来るのをじっと待つ。何を言わずとも、ルイの話にも終わりがあるはずだった。が、アタシは陽介とは違う。発せないのではなく、今まで発しないだけだった。出せる言葉があるのに身動きせずにいれば、今までのアタシと何一つ変わらない。アタシは七瀬との時間で沢山の優しさをもらってきた。誰かのために、、、七瀬の為に保身を破りたいと強く願った。握った拳は震えている。アタシの言葉で扉の向こうから返ってくるものが必ずある。それが暴力なのか、探りなのか、情報なのか。アタシや七瀬にとって良いものだという保証は一つもない。それでも、アタシは陽介を守り続けた七瀬を守りたいと思った。例えアタシが壊れようとも。
「気が強い犬、と見た」
ルイがケラケラと笑う。
「七瀬がそう言ったのか?まぁ、なんでもいいさ。陽介はもう用無しだ。七瀬も男を引きつけてばっかで、いちいち面倒なんだよねぇ。。」
ルイが声を荒げることはなかった。が、奴の言葉はどす黒さを醸し出している。ゆっくりと言葉を連ねるその間隔に異様な威圧感があるのだ。
「オヤジも消えたことだし、俺も自由になりたいんだ。分かるか、お前?」
分からない。ルイの言っていること何一つアタシには理解できなかった。七瀬の前に突然現れて、七瀬が面倒だとか陽介は用無しだとか、その上自由になりたい?
「戻って、こなきゃよかったじゃん……」
「お前、七瀬になにも教えてもらってないんだな。かわいそ」
この一言に、アタシの恐怖心は苛立ちに変わった。今日やっと七瀬の奥に触れられたばかりだ。心が追い付かないほどの七瀬の過去を知れたというのに、何も教えてもらっていない?
「まぁいい」
窓の外に煙草の火の粉が回転しながら舞い落ちて行った。車の床がぎしっと揺れ、トランクのドアが開く。ルイが出てくる。アタシは慌てて車が施錠されているかを確認した。
「アイツも生意気なんだよ。なんにも分かっちゃいないくせに突っ走って。俺への感謝の気持ちを飼い犬に話してくれてもいいところを……」
車の後方から側面側へと声が少しづつ移動しながら大きくなってくる。アタシは声を避けるように、運転席の窓に体を寄せた。
「誰が……」
黒い影がアタシがいた助手席の窓の外に現れる。深く帽子をかぶっている頭が顔を上げ、鋭い視線が真っすぐにアタシを見据えた。
「父親を殺してやったと思ってんだか」
息が止まった。頭の中が真っ白になり、小刻みに震える顎がカチカチと歯を鳴らす。後ろに回した手が手探りで施錠を解除し、アタシは転がるように車外へと飛び出していた。どうやって足を出しているのかも分からぬまま、振り返ることなく必死に駆けだしていた。
「アイツに言っとけ。俺はもう、影はごめんだとな」
響き渡るルイの声に、夜の闇は微かに笑っているように思えた。
どこをどう走ったのか覚えていない。腰の高さまである草の茂みをかき分け、迷いもなくただ突き進んだ。暗がりの中で踏みつけた草は足にまとわりついてきた。それでも、必死で前に進む事だけを考えて。
ー あれはルイ!ルイだ!
自分をなだめるように繰り返す。ガラスの向こうに現れたのは七瀬だった。いや、一瞬ルイが七瀬に見えたのだ。目つきも顔つきも、何一つ七瀬のものではなかった。が、暗がりにぼんやりと浮かんだこともあってか、このアタシが見間違えるほどにルイと七瀬は重なっていた。左に口角を寄せるような笑みに、突き刺すような鋭い目つき。七瀬とはかけ離れていたのにも関わらず、瞬時に[七瀬だ]とアタシの頭が判断してしまったのだ。陽介の容姿を思い描いたことはあれど、ルイのことは考えたことはなかったアタシを襲った不意打ち。ルイとの予期せぬ対面をしてしまったアタシは、兄弟の血の濃さに心をえぐられたような衝撃を受けていた。ルイを七瀬だと錯覚してしまった自分にも、怖いくらいに似通った二人の姿にも、アタシの中で気持ちの処理の仕方がどこにも見つからないでいた。
前に突き進むアタシが出した一歩。足元にあるはずの地面が消え、穴に落ちてゆく感覚と共に、アタシの体が前に傾く。次の瞬間、アタシは斜面を転げ落ち、何度も地面に叩きつけられた。
やっと静止し、そこでアタシの記憶はプツリと切れた。