![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/147626493/rectangle_large_type_2_efc5c433fa9c018878452cb649bad4cc.png?width=1200)
連載小説:『七瀬は誰にも探せない』第九話
第九話:『黒石の行く先』
目を開けると、草の先がゆらゆらと青い空を撫でていた。葉の間から洩れる光がちらつき、アタシは目を細めた。もう日はとっくに昇っていたようだった。体を起こそうとした直後、頭に割れるような痛みを感じ額に手を当てた。途端に額からボロボロと小さな黒い塊が落ちてくる。土だと思い手のひらを返すと、そこには見慣れた赤色が塗られていた。アタシはどうやら頭に傷を負ったらしかった。が、意識を失っている間に、ほとんどの血は固まり既に額の上で黒く乾き切っていた。久しぶりに見る自分の血をじっと見つめると涙が溢れてきた。決して額の傷の痛みからではなかった。私の心が痛がっていたのだ。七瀬の過去も、ルイとの会話も、七瀬を守ろうとした自分も、陽介への想いも。全て痛かったのだ。と同時に、怖かった。痛めつけられた時の痛みとは比べようがないほどの、失うかもしれないという不安に。つい先日まで、ずっと続くと思っていた七瀬との時間に、アタシを救ってくれた出会った頃の七瀬。全てが崩れゆくような不安に心が押し潰されそうになったアタシは、本当の意味での怖さを感じて堪らなくなっていた。
息を吸い込むたびに頭が軋む。再度額に置いたアタシの手。指が傷口をかすめた。
「なんで、おんなじとこなんだよぉ……」
大口を開けた傷は、七瀬の傷と同じ右額上部の生え際にパックリと刻まれていた。上を見上げ目を閉じると、日の光だけが瞼をすり抜けて見えた。
重く感じられる身体を、やっとの思いで自分の足で支え立つ。ジーンズの膝が草木で緑に染まり、めくりあげると両膝ともに見事に擦り剝けていた。右を向いても左を向いても草に囲まれている。後ろを振り拭くと、暗がりの中でみえなかった急斜面があった。アタシが昨夜上から転げ落ちたのに間違いなかった。地面には小さな石が散在していたが、草がアタシを守ってくれたのだと感じた。アタシの最後の記憶と目覚めた記憶が一致しているということは、ルイが追ってこなかったということだった。それが分かっているのは心強い。今の状態で走れと言われても、アタシには無理だから。
そんなに遠くはない丘の上には七瀬がいるはずだ。そして陽介も、ルイも。
ー でも。。。
アタシは膝に負担をかけないように、ゆっくりと斜面を下り始めた。
斜面を下り始めると、自分がどれだけ運が良いのかを実感せざるを得なかった。というのも数百メートル左右にずれた場所には急斜面は愚か、崖っぷちのような断崖が多数あったからだ。暗がりの中で、少しでも自分の進んだ方向がずれていたら、アタシはとっくに死んでいただろう。
今上に戻り七瀬に会っても、ルイに会っても、自分が何をすれば良いのか分からなかった。何を発したらよいのかも、どんな顔をしたらよいのかさえも。決して彼らから逃げようとしているのではなかった。ただ、考える時間がアタシには必要だった。
なるべく穏やかな斜面を選びながら、目の前に広がる海を目指す。昨日、七瀬と眺めた海に囲まれた光景とは違い、前面に開けた海。半島の側面を見ているのだろうかと進んだ野原を顧みるが、その頂上は緑に覆われているだけだった。踏みしめる地に砂利が混在してくると、草の背丈も徐々に低くなり、そしていつの間にか浜に変わっていた。それは砂浜というより、石浜である。角がない滑らかな丸石で埋め尽くされている浜に、穏やかな波が打ち寄せていた。浜まで押し寄せる波は、無数にある岩礁に当たってその勢いを失いながら浜にたどり着いている。
ー 七瀬みたい。
この海はまるで七瀬のようだった。
強い波と常に向き合っているのに、それをそのまま浜に届けることはしない。自らを盾にして波の勢いを衰えさせ、そして穏やかさだけを届けてくれる。打ち上げられた石は、七瀬の発する言葉達だ。尖った石を丸くして、誰も傷つけぬようにしてから浜に流す。
アタシはズボンをまくり上げ海に足を踏み入れた。冷たい海水を擦り切れた膝にかける。傷口はその冷たさに色を赤く変える。綺麗な桜色に染まる膝の傷は癒しを感じていたに違いない。恐る恐る海水を両手で救い、頬に持ってゆく。乾ききった血が、ゆっくりと溶けてゆく。指で額の傷口に軽く触るが、塩水が滲みたとたん痛みですぐに手を引っ込めた。その鋭利な痛みに昨夜のルイの瞳が重なった。見たものを切り裂くような冷たい目には何も映し出されてはいなかった。ルイも七瀬と共に辛い過去を背負っているはずなのに、もう何も感じてはいないような、そんな目。だが、今冷静になってルイに同情を感じる自分がいた。ルイはまるでバラバラにされたガラスだ。どこに触れても痛みを伴うようなガラスの破片。父親を殺したと言ったルイは、もしかすると陽介とは違う形で傷ついているのではないのか。それはルイと同じように暴力で抑えられてきたアタシだけにしか分からないことかも知れない。父親を殺してしまおうと何度も思った私だから。
足元にあった黒石を手に取り、思い切り海に向けて投げてみる。飛び込み選手のように垂直に入水した石は、しぶきの輪をあげた。ゆっくりと海底に沈む石は、いつかまた岸に打ち上げられるのだろうか。時を経て、また同じ場所に。
ー 七瀬のところに戻ろう。
いつか、また浜辺に打ち上げられる運命であっても、今は海のような七瀬の元に戻りたかった。自分の態度できっと七瀬を傷つけてしまった。が、アタシが七瀬に向けるこれからの笑顔は、七瀬の全てを包み込めるような本物の笑顔であるはずだ。何を口にするかなど考えた所で答えは何も出ない。早く、一刻も早く陽介に起きてもらうことが今の七瀬の向かう場所。ならばアタシはそんな七瀬を支え続けるだけなのだ。ルイには陽介も、そして七瀬も触れさせない。そう固く思いながら、黒石が還った海をただじっと眺めていた。