北海道東川町「大人の学び舎」Compathへ。「人生の余白」を暮らしながら知る、8日間
北海道ってほんとに、ほんとうに大きいんだ…。
10月中旬、わたしは人生ではじめて北海道に足を踏み入れた。ウルトラライトダウンをジャケットの中に仕込むほど、夜はひんやりする季節。大阪から8時間ほどかけて、東川町というまちにやってきた。
このまちには、デンマーク発祥の「人生の学校(フォルケホイスコーレ)」をモデルにした「大人の学び舎=Compath(コンパス)」がある。
そもそも、フォルケホイスコーレって??
そのほかの特徴は、共同生活で人と暮らしながら自分を見つめ直す時間を設けられること、試験や評価が一切ないことが挙げられる。
日本にはなかなか馴染みのない教育の概念。こんな学校があるんだ…行ってみたいと強く思った。
ここでは2023年にデンマークのフォルケホイスコーレに体験入学したわたしが、2024年に北海道東川町にある「学びの宿=Compath」にたどり着き、どんな時間を過ごしてきたのか、体験記を紹介する。
なぜデンマークから東川町へやってきたの?
デンマークのフォルケホイスコーレ(以下、フォルケと省略)には、2023年に1日だけだが体験入学をしてきた。
生徒たちは、自身の興味関心に合わせて学問を探求し、自分はどんなことを楽しいと感じるのかを知っていく。
共同生活をするなかで、自分の大切にしていること、相手が大切にしていること、話し合い寄り添う術を学び、自分は社会とどう関わっていくのか模索していくのだ。
また、誰かの「問い」が授業のテーマになったりすることだってある。
まさしく「人生の学校」。
社会人になって、人生の、キャリアの迷子になっていたわたし。
なんて素敵なんだ…!と思ったのと同時に、対話をしたいのに英語が思うように出てこず、伝えたいことが伝わらないもどかしさを思い知る。
「あぁ、日本にもこんな学びの場があればいいのに…」
・・・
「北海道の東川町にあるよ!Compathってところ」
「え…あるの??」
フォルケの体験プログラムに引率してくれていた方が、なんと東川町出身の人だった。
「東川町はものづくりも盛んで、陶芸とかインテリアが好きな君なら絶対気にいるよ〜〜」
それが、東川町との、Compathとの出会い。
デンマークに行ってから約1年後、念願叶って北海道の地へやってきた。
北海道の秋に学ぶ「ちいさな表現、豊かな暮らし」
わたしが参加した秋のショートコースは、10/13~20の8日間で実施された。テーマは「ちいさな表現、豊かな暮らし」。
もともと芸術鑑賞やものづくりが好きだったので、コース内容に惹かれて参加を決意。8日間で3つの表現に関する贅沢な授業を受けた。(そのうち一つは選択制)
こころを彩る、投影された自分と向き合う|【生花】
生花の授業では、はじめに基本的な生け方を教わった。その後、自分の好きなお花を選び、どんどんカタチにしていく。
北海道で育ったお花たち、やさしい色からビビットな色まで。見るだけでもこころが踊るお花に触れ、内なる感情を自分の作品に投影する時間は癒しの時間でもあった。
最後に生けたお花に名前をつけ、作品を見せ合いっこした。
生けたお花を見るだけで「あ、これは〇〇ちゃんぽいな〜〜」とか「〇〇くんの選ぶ花、やさしくて小さなお花が多い!意外だなぁ」とか。
感じたこと、思ったことをノートにまとめたり、発表したり。
すごくよい疲労感を味わい、やってみたい習い事の上位に生花が急上昇した。
答えを出すことが全てではない、問いつづける|【現代アート】
「アートってどんなイメージですか」その問いから、この授業は始まった。
思うアートのイメージは十人十色で「少しハードルが高い印象がある」というものから、「鑑賞するのが好き」という声も。
共通としてあったのは、これから自分たちの手で「なにか未知なるものを作り出す」という緊張感であった。
最初はみんなで同じ素材「たまごの殻と石」を使って、思考や思想を表した。面白いと感じたのは、同じものをもっても誰ひとりとして、同じ作品にはならないというところ。
そして、その素材がどんな性質で、どんな重さで、自分は何を伝えたいのか。特徴を知り、物質と自分の共通点を探る過程は、日常生活では味わうことのない経験だった。
2つ目の制作は、自由テーマだった。何を使ってもいいし、どこに作品を置いてもいい。わたしはある「ことば」を表現したかったのだが、自分が表現したものなのに、自分がいいなと思うものにならない違和感や、不完全燃焼さを感じ、「うぅ、なんだか苦しいぞ…」という気持ちが込み上がっていた。
現代アートの先生がおっしゃっていた「自分が思っているものを作っても、自分に響かない絶望感がある」というフレーズが頭から離れなくなった。
記憶をカタチに、わたしの目に映る物語をあなたに|【演劇】
この日は1番、みんながそわそわしていた日。
演劇って自分がする側になるなんて思ってもいなかったので、内心「どうしよう。どうしよう」と思っていた朝。演劇の先生のひとり芝居「反復かつ連続」の鑑賞から始まった。
寒い冬、慌ただしい朝の日常。重なる声、表情、そして人生。
はじめて観た劇なのに、どこか懐かしく、こころの器から溢れ出た何かが、涙として頬を伝った。
その後、ウォーミングアップとして「わたしは木です」というシアターワークを行った。これがめちゃくちゃ楽しかった。
公園というお題が出たら、それぞれ公園にあるものになりきり、ひとつの作品を作っていくのだ。ブランコや砂場、滑り台。そうやってみんなでそこにあたかも公園があるように、なりきっていく。(写真は1番右のもの)
そしてテーマはどんどん抽象的なものへと変わっていった。
「あなたが最近よかったなぁと思ったことは、なぁに?」
「幸せってなんだと思う?」
その場で、決められた時間で劇を作っていく。はじめてのことでも、不思議と緊張せず精一杯やろうと思えた。このメンバーなら、きっとあたたかく見守ってくれるだろうと、根拠のない自信もあったから。
相手の見てきた景色や、これから描く未来を一緒に演じられることは、限りなく尊く、とても、とても素敵な空間だったなと思うのだ。
そして勇気を持って表現してくれたみんなにも、自分にも拍手を送りたい気持ちでいっぱいになった。
余白の時間
プログラムには、授業以外の余白の時間がたくさんある。
仕事をしてもいいし、昼寝をしてもいい。読書したり、まちに出かけたり、山に登りに行ったり。
いまあるこの時間を自分がどう使いたいか、ゆっくりと考えることが許されているのだ。
普段のわたしだったら、きっとやることに追われ次から次へとTODOリストの項目を消すために走り続けていただろう。もちろん、それが悪いことではないが、ふと思うのだ。これを続けた先に、自分の幸せはあるのだろうか、と。
だから、Compathに行きたいと思ったのだ。日常から離れたこの空間で、わたしは何を思い、気づくのか。そうして余白の時間で、わたしはたくさん「対話」をした。ルームメイトやCompathメンバーと、本と自分と。
大きく何かが変わった訳でも、見るからに成長した訳でもない。
でも「なんとかやっていける」という、自信がわたしをやさしく包んでくれていた。
おわりに
Compathの秋のショートコースに参加してきた感想を記してきた。なかには、その場にいないとわからない内容もあったと思う。
でも、それでいいのだと思う。
Compathにおいては、「これ」というひとつの正解はない。食卓を囲みご飯を食べ、笑い、悩み、泣き、ともに過ごしていく。それは一緒に暮らすからこそできること。1週間前までは全く知らなかった人たちと、夜が深くなるまで語らう日が来ることを誰が想像しただろうか。
だから、もし少しでも興味をもったらおしゃべり会(説明会)に参加してみてほしいなと、ちょっと背中をつんつんと押してみる。
自分の肌で感じてみてほしい。
わたしはこのコースに参加して、「祝福する気持ち」や「モノ・コト・ヒトを愛でる気持ち」がこころを豊かさにすることを学んだ気がする。断定して言えないのは、いまも日常で実験中だからだ。
「はい、ここでコースはおしまい」と同時に学びが終わらないのも、とても素敵だなと感じている。Compathでの学びは命ある限り、つづくのだ。
そして、わたしは小さな表現をしつづけようと思った。
ことばを紡ぐこと
景色を映すこと
絵を描くこと
伝えること
自分の生きてきたこれまでを、表現することは楽しいことばかりじゃないかもしれない。
でも、伝えつづける努力をしたいと思った。
「いってらっしゃい」
最終日、みんなが校舎を出ていくとき、自然と飛びかったことば。
また会う日まで、元気でね。
大阪に戻ったいまも、写真を見返してはCompathでの日々に想いを馳せている。