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『黄色い家』そして黄美子と障害

今日を生きて明日もそのつづきを生きることのできる人たちはどうやって生活しているのだろう。そういう人たちがまともな仕事についてまともな金を稼いでいることは知っている。でもわたしがわからなかったのは、その人たちがいったいどうやって、そのまともな世界でまともに生きていく資格のようなものを手にいれたのかということだった。

『黄色い家』川上未映子


『黄色い家』すさまじい話だった。 

心がえぐられるって、こういうことなのかもしれない。暗くて、どこまでも暗くて気が滅入りそうなのに、とにかく切ない。必死に生きようとする登場人物とそこに絡みつく生まれながらの境遇が、犯罪を誘発する自然の流れのように迫ってきて目が離せなかった。

書き出しにある抜粋した文章は、この本の核心をつく部分だと思いました。「その資格がない者」は、最初から決められている境涯を背負うしかなく、抗ってもそこから出られないようになっている。その「資格がない者」と「資格がある者」を分ける境界線が社会にはあって、くくられた場所でしか生きられない者の不条理な人生を、この『黄色い家』に託したのだと感じました。


転がるように犯罪に繋がる奇妙さと恐怖に、読み手のこちらにまで煽られているような居心地の悪さに包まれる。貧困がもたらす弊害は、幾つにも枝分かれし、まとわりついて離れない。黄美子の監禁事件のその真相も、置かれた背景に惨み掻き乱される。けれどわたしの立場からはそれが警告のようにも思えて、鬱屈した心情がしばらく離れませんでした。


他に家庭があり姿を見せなくなった父親と、ホステスで稼いだ金を服や酒や彼氏に使う母親と、その親元に暮らす花。母親と暮らす文化住宅から抜け出すためにバイトに明け暮れ必死で貯めた引越資金は母親の彼氏に盗まれてしまう。その絶望のなか、黄美子と再開し救いの手を掴み歩きだす主人公の花。

黄美子と始めたスナック「れもん」が彼女の仲間達に助けられ軌道にのり、知り合った元キャバ嬢の蘭と、母親に不満を募らせる金持ちの桃子も同居に加わり物語は進んでいく。

共同生活が順調だと思われたころ、ネズミ講に遭い借金を抱えた母親からサラ金の返済金を求められたことで、花は「れもん」でためた貯金の全額を失ってしまう。その後「れもん」が火事で焼け収入が途絶えると、花を筆頭にして他人の集まりであるこの疑似家族はカード犯罪に溺れていく。「れもん」を再開したいという思いから始めたカード詐欺は、その金が汚い金であることや自分が未成年であることで「れもん」を再開できないことを理解している花。それでも犯罪から手を引かず、大金を手に入れてもなお将来に怯え囚われて、金の無心をやめられない。無縁の4人の生活を守ろうと狂っていく様子は、その家が花にとって唯一の居場所だったのだと想像させる。

金はいろんな猶予をくれる。考えるための猶予、眠るための猶予、病気になる猶予、なにかを待つための猶予。

どこまでも金に悩まされ、金に翻弄されてきた主人公の花が、金をどう捉えるようになったのか、その家をどれほど守りたかったのか、いびつな形となった金への思いは、花の境地を物語っているように思えました。


この本からは、頑張れば道は開けるとか何とかなるとか、そういうのは、生まれながらに土台が用意されている人に限られたことで、上っ面の薄っぺらい戯言の如くに感じさせる。花の、あらがっても足掻いても抜け出せない苦しさは、努力とかそういうのでは解決できないのだと繰り返し訴えてくるようだった。それは大金を手に入れても変わることはなく、人の心に住みつき蝕むのだと知らしめているようでした。


そして気になる黄美子の描写。

「汚れてもいない壁をいつまでも一生懸命に拭き続けている黄美子」「わたしは、腹が減ってんのかなとか、泣いてるなとか、そういうのだよ。なにすればいいか、そんならわかる」「わたしには、そういうことしかわからない」

文中には障害の文字は一つもないのに、障害の特性だとわかる文章があちこちに散らばっていて、発達障害の息子を育てるわたしには、ビビビときた。

黄美子の母親というのが、覚せい剤と盗みと放火で刑務所に出たり入ったりしている人物で、街金などで借りたシャブ代を母親の代わりに黄美子が支払っているが、18歳のときに出会ったヨンスという人物が、彼女を支えている様子が頻回に描かれている。

そのヨンスと花の会話のなかで、黄美子のような人間は、闇の世界では金の成る木だと話している部分がある。

黄美子のように家族もおらず身元も適当で、今日いなくなっても何の問題にもならないような人間は物のように扱われ、飛ばすのにも沈めるにも都合がよく、そういうのを専門で探してるやつらもいるのだと。
なにも言えず、誰も聞く耳を持たず、世間はそういう人間を存在しないことにしていて、優しい言葉でつけ込めば思い通りにできるから、親身なふりして借金をつかませ、利子だなんだと言って無限に毟りとるのだと。

だから金の成る木だと思われないように、家出してることや親と連絡をとっていないことを誰かに話すことは危険なことだと、花に注意を促す文面となっている。


障害のある子は犯罪に巻き込まれやすいと聞いたことがある。息子が小学校にあがる少しまえだった。嘘か本当か、信じていいかダメなのか、そういう判断が難しく、甘い言葉に誘われやすくて騙されやすい。そういうところがあるのだと。もしそういう人が息子に近寄り興味のあることで手招きし、そそられる思いを止められず息子がふらっとそちらへ行ってしまうことは、ないとは言えない。

障害児にある純粋さというよりは、あまり人を疑わず信じやすいところがあるからだと思う。

当時はまだ、どこへ出かけるにも常にわたしが隣りにいて、それは学校に行くときさえそうだったから、犯罪とかそういったトラブルに遭いようがなかった。けれど少しずつ、周りよりもゆっくりだけど一人で出かけるようになり、自転車で少し遠くへ、電車に乗りあそこの駅までと足をのばすようになって、そうやって行動範囲が広がると、成長の喜びと引き換えに、今度は何事もなく帰ってきますようにと願う気持ちは強くなった。

息子の後ろを追いかけ回す時期は過ぎ、いまは次の段階に入っていると感じる。親の目の届かないところで誘惑があったとき、気分がアガる白い粉か何かを渡されて、それがどんなものかも知らないで、気づいたときには薬物の所持や使用で捕まったりする子もいると聞く。

『黄色い家』は夜の世界、闇の世界の話だけど、性別問わず家出の子や障害のある子なんかにはわりとすぐ隣にある危険というか、危うさがあって、うちには関係ないやと思えないところが怖かった。


この小説は、黄美子が二十代の女性を閉じこめ暴行し、怪我をさせたという監禁・傷害事件を花がネット記事でみつけたことで20年前の記憶を辿ることになる。黄美子が言葉で支配して意のままに操って、そして脱出した女性が通報して発覚し捕まったという事件になってはいるが、真実は無実で、黄美子はやってもいない罪で執行猶予の判決を受けることになる。

黙っていることしかできなかった黄美子、うまく説明できない黄美子を、障害のある息子に重ねたとき、たとえば悪意ある誰かに嵌められたときに、黄美子のようにはならないなんてどうして言えるだろう。夜の世界じゃないから大丈夫だと楽観できるほど、社会は優しくないことも知っている。

いつもは空の冷蔵庫に、隙間なく食べ物を詰めて中学生の花の心を満たしてくれた黄美子。花の居場所だったあの家で共に暮らし、心から笑い、幸せをくれた黄美子を残し去ったことへの後悔と、彼女を救いたいという思いから発せられた「わたしと一緒にいこう」の言葉に、「わたしは、いかない」と黄美子が答えるところは、過去とは違う、今度はあのときとは違う関係になるのではないかと淡い期待を予感させた。それがちょっとだけ、救われない黄美子と花に差したうっすらとした光のようで、わたしはぐちゃぐちゃして重くなった胸の内から開放されたような気がした。

人の生きる道は生まれたときから決まっていて、違う人生を望んでも簡単には抜け出せない。そんな残酷な感想を持たせるのに、それをとことん追求してどこまでも生々しく描かれる様が容赦無い。それは、自分の意思では選べない一方的に置かれた悲惨な状況下にいる人がいるんだよと、この社会には逃れられない不平等があるのだと投げかけているようでした。また、わたしの子供にはその道に入る性質が備えてあることを、具体的で強烈なフィクションとして伝えてくれている、戒めのようにも思える一冊でした。

 


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nanam|なな
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