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学習則と社会的ダイナミクスの変容。




序論:学習則の社会的定義と拡大。


社会の機能-構造パターンについて、その構成を明らかにしようとした研究者は山ほどいるが、著名な一人にタルコット・パーソンズがいる。

パーソンズは準拠枠-独特の言い方だが-サブシステムという概念を提唱した。これは認知のメインシステムを補助する副次的機能を持つ。本論の趣旨に沿って、そういう定義をしたい。

加えて、パーソンズのサブシステムはレイコフとジョンソンが言うような高度なメタファーの体系でもある。
メイン-サブシステム間で生じる概念のリバランスに目を付けているのは、彼らがパーソンズ的であると同時に彼への批判者としても学的に機能していることを示している。


「比喩の本質は、あるものを別のものの観点から理解し、経験することです。そのような場合、比喩的な概念は、私たちが日常生活で現実とみなすものを定義します。たとえば、「自由」のような概念は孤立しているわけではなく、「制約」や「制限」などの対照的な概念との関係で理解されます。」

『レトリックと人生』    レイコフ=ジョンソン 


例えば、自由という言葉にはその通りの意味と同時に、その発話には"自由がない"ことも含意されていなければならないだろう。束縛や権威がそれに対応するのだろうか。

なので、自由を欲求した段階で、自己は認知機能の中にその対概念としての意味を了解しているはずであり、そうでなければ認知的統合が成立しないのではないか。

AGIL図式を使いパーソンズは社会的価値の枠組みより準拠枠を構成した。だが本来、社会化とは絶えざる個性化-これはユングの概念-の集積であるはずだ。となれば、社会という平面に志向メカニズムを拡散させることも許されるはずであり、その意味でルーマンが臨んだ問題と本論は社会的意識を共有している。

加えて、サブシステムには枝状に対応する『分節』が存在する。これはパーソンズ以後の学者に依拠した整理である。

例えば、自由という言葉であれば、そこに束縛、権力、義理、法律、刑務所など。さまざまな対概念のなかに保存されている言語の分節構造に開かれている。これはパーソンズら社会学者が言う"価値"に相当する概念である。

そして、自身の認知機能が秘める文節-サブシステムを発見していくことが、学習過程の内部構造だと定義できるのではないか。もっと言えば、その学習則が社会の内部構造を規定しているとも言えるのではないか。

例えば、悩みが取り留めないのは、あり得る自己像についての軸が行為ストレスに付随する体内エントロピーの上昇のうちに拡散してしまっているからである。

その段階では、日常に付随する《行為-動機-あり方》から分節された《認知-価値-見え方》の問題が認識論的平面の上で酸化されてしまう。しかし、自身の内部構造-分節を認識すればするほど、逆に次はそれがあり得るであろう自己像に還元されてゆく-ハイデガーに従えば、セルフイメージが《平均化》される-過程を社会的な学習則としてこれを定式化出来るのである。

すなわち、悩みの解決。問題解決と学習過程が、サブシステムの発掘だと仮定することも容易になる。(それと、書いてるうちにこの理屈の展開がハイデガーの『存在と時間』に似てることに気づいてしまった。まあそれはいいや。)

ここまでをまとめると、悩みが取り留めなく感じられる原因を、認知機能の分節がストレスやエントロピーの増大により拡散することから関連付ける視点は、心理学的なストレス理論やエントロピー理論とも結びつけられる可能性があること。

及び、内部構造や分節を認識することで、自己像やセルフイメージが再編成され、悩みが解消されるプロセスは、学習や自己成長の一環として捉えることができるということ。

そして、その人間社会の学習則が社会構造に大きく影響していること。

これである。


a.学習則と社会学


以上の形式から論じた自己の平均化→再構成を通じて学習過程を経るというアイデアは、メインシステムが志向する外部の局所論的な把握について、それをルーマン的に言えば、システムが保有する内部コードがサブシステムの機能を通じて外部コードと相互作用する。そのようなオートポエトーシス-自己言及メカニズムの絶えざる作用である、と定義出来る。

これはパーソンズとルーマンの接続点とも言える。


b.エントロピックな解釈及びマクスウェルの悪魔。


ついでに、以下はアクロバティックな推論ではあるが、熟考に値する。それが熱力学の第二法則とサブシステムの関連である。

エントロピーの増大とそれがもたらす学習過程について、本論のサブシステムの働きから見た場合の効果を前述した。

熱力学の矛盾についていち早く気づいたのはマクスウェルであった。彼が提示したマクスウェルの悪魔の思考実験は、時代を下って物理学者たちが提示した"経験を忘れる"ことによるエントロピーの縮退を予測した。この縮退の過程と学習則は、かの実存主義の巨人ハイデガーが『存在と時間』の中で展開した理論とも近接した構成だと思える。

及び、学習則が経験の忘却を含んでいることが熱力学の視点から散見される。たしかに、人間は純粋に悩みにぶつかって、それをただの"灰色の神経細胞"のみで解消しているとはとてもではないが思えない。

そこには、海馬が行っている、一定期間中に保存された記憶の収縮活動であったり。もしくは中島義道が『不在の哲学』の中で指摘したように、実際には記憶を呼び起こした際に生じうるニューロン同士の電気的信号の重ね合わせに、限界と可塑的な変化があると思われる。

まさに、

「私たちは過去を記憶し、未来を予測することによって現在を生きている。しかし、記憶は私たちが選択的に再構成するものであり、その結果、私たちは過去を自分の都合に合わせて作り直す。したがって、私たちの現在の自己も、常にその再構成された過去によって形作られている。」

『時間論』 中島義道


と、以上の過程をパラフレーズ出来る。


ゆえに、自己-社会は常に流動的である。


c.夢判断とサブシステム。


フロイトは、

「夢は隠された願望を表すが、これらの願望は意識が許容することができないため、象徴的な形で現れる。夢の内容は表層的には無意味に見えるが、詳細に分析することで、抑圧された無意識の欲望が明らかになる。」

『夢判断』 ジークムント・フロイト

と夢を解析する。

この引用では、夢の内容が無意識からの隠れた願望や意味を含んでおり、それを解釈することで内在する意味が解き明かされることが強調される。これは、本理論における「分節化された認知」や「サブシステムの発掘」のプロセスと共通していると考えられる。

フロイトは夢を「無意識の願望の表出」として捉え、意識が抑圧している内容が象徴的に現れると考えた。本論で論じたサブシステムの発掘は、意識的に認識されていない部分が徐々に明らかになり、自己の再統合が進む点で、フロイトが無意識の内容を夢を通じて表出させる過程と類似している。

以上の理論における「分節構造」は、概念が多様な枝状の対立的要素を持つという考えだが、フロイトも夢において一つのイメージが複数の意味を含み、無意識の分節化された要素が象徴として現れる。夢のシンボルはしばしば複数の意味を持ち、抑圧された要素がさまざまな形で現れる。
その点で、サブシステムの考え方と関連する。

それにフロイトは記憶の理論家でもある。
彼の著作は本論の主張とも通じ合う部分が多いと感じる。


d.整数論の数学的形式。

「数学という営みは、決して無機的で冷たい抽象の世界に閉じこもるものではない。それは、身体の動きや感覚と深く結びついたものであり、私たちの生きた経験の延長として存在している。数学は、私たちが体を通じて世界と接続するための一つの方法なのである。」

『数学する身体』 森田真生


ある整数環(z)の内容を(x=1、y=ー1)とした場合に、乗法の規則に基づくとxはyに、yはxにそれぞれの単位元の決定を委ねていると定義出来る。この過程は物理学が保有する単位(g、h、vなど)が実験的事実に基づいて分節されていくのと同じ性質を持ち、数自体を一つの記号として扱えるところが魅力的である。

そして、この定義から言えば数自体も分節構造を保有すると言える。そのモデルが本論で見てきた分節構造と似通っていることはもちろん言うまでもない。

例えば、素数(1とその数自体だけでしか割り切れない数)は連続する数学模型の中に点在しており、ある上限からそれ以下に分布する素数を発見するためには素因数分解が使われる。素因数分解とは、与えられた整数を素数の積に分解することを示し、

24 = 2^3×3

のような形で与えられる。

24という一つの数にそれ以上の複雑性を与えた場合にのみ右項が表れる。これでは形式が同じなのに、内容の違う系を得ることが出来てしまう。思うに、このような複雑性、構造化を数学に与えたことが初等整数論がした重要な仕事だと思われる。

すなわち、数の機能分節である。

それに付随して、数と社会の分節問題についてノーバード・ウィーナーはこのように言っている。

「社会の動態は、数学的な構造に例えることができる。社会が分割され、それぞれの部分がどのように相互作用するかを考えることは、数の分節構造と似ている。個々の行為や意思決定は、数学的な体系の中で、より大きな全体に対して関係付けられる。」

『サイバネティックス』 ノーバード・ウィーナー


彼自身は整数論を直接的に人間学に応用したわけではないが、彼の論考を読んでみると数と社会の関係を機能分節の視点から把握しようと努めていたと見える。

本論ではよりもっと数学と社会の関係について深掘りすることはないが、これまで確認してきたように人文科学と自然科学を、いわゆる文系対理系のような単純な形に還元できないこともここからわかる。


終わりに:学習則は多様でなければならない。


数学、社会学、哲学、分類学、物理学、、、

本論では、学問とは多様に根を張っていること。そして、一元的に単純化など出来ないという"あまり知られていない事実"について論じてきたつもりである。

最初は、社会が持つ学習の過程とそれが個人の何によって構成されているか。そのことについて書いていたが、かいているうちに学習則が経験の中でどのように表れるのか。あるいは、その経験にいかような共通点があり得るのか。

そんな感じに問題意識がうつろってしまった。

だが、問題を解く際には、むしろこのような虚いこそが鍵となる。それは諸学問の根が他分野にかけて広がっているからであり、知見はどちらかというと広い方が良いに決まっている。


長くなったが、もうめんどくさいので一旦終わりにする。(客観的に書こうとしすぎて自分でもよくわからないところが出てきたから。)

読んでくれた人はありがとね。


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