文化を作る
子育て歴、夫婦歴共に20年になる今年。0から始まって20年共に暮らす家族の形を考えてみた。
言葉は文化
子どもがお腹に出来た時、ふとテレビを観ながら考えた。皇室の方々って、どうしてみんながみんなこんな話し方をするんだろう。
それまで考えたことのなかった「話し方」と人の性質の関連に思いを巡らせた。アメリカ人は生まれた時から英語の環境の中にあって英語を話す。私たちは日本語。それが当たり前だと思っていたけれど、その日本語の「話し方」って結構大事。それが自分をプロデュースするものであるにも関わらず、結構私たちは言葉を無意識で使っている。そこに意識を向けた時、もっと面白くなりそうだと思った。
皇室の皆さんは生まれながらに皇室の方。それらしい丁寧な言葉遣いの人が周りにいて、その言葉のシャワーを浴びて育つから自分もそうなる。私はどうだろう。途中で付き合う友達やその時の流行で、わざと「オレは」なんて言ってた頃もあったし、当時男言葉と言われる様な言葉を使ってみた時もある。でも不思議とその時母は何も言わなかった。それは、幼い頃に私に浴びせたシャワーの効果を信じていたから、だろうか。母が幼い頃言い続けていた「殺す」や「死ね」は絶対使ってはいけない言葉、ということだけは体に刻まれていて、友達と学校でふざけて使った時にも心がキリッと傷んだ。
大人になってからは言葉が丁寧だ、とか使う言葉のチョイスについて褒められることが増えた。紆余曲折の後に私が選んだ言葉遣いと言葉たちだ。
この短い私の歴史を見ても、言葉と出会ってマスターするまでの過程って大事だと思う。
よし、私は綺麗な言葉をたくさん子どもに聞かせよう、そう思って気に入った絵本をお腹に向けて読み聞かせしていた。それが始まり。
ことばの実験
子どもが生まれてから、それはそれは失敗とうまくいかないこと、後悔の連続だったけれど、それでも子どもたちはいつもそこにいる。そうだ、毎日を実験だと思ってみよう。もちろん命にリスクが及ぶ様な実験ではなく、簡単なもの。例えば言葉。
内心とっても急いでいる時に子どもに「急いで!」と声をかけるのは通常あること。ではここで「ゆっくりどうぞ」と言うとどうなるのだろう。
そんな小さな実験をしてみた。結果はほぼ同じスピード。子どもの性質も関係するだろうが、慌てさせたり圧力をかけ過ぎるとパフォーマンスが落ちる人がいる。私がそう。だから、急がされたり慌てさせられると絶対しない様なミスをする。それを防ぐために慌てている時には自分自身に向かって、「大丈夫、間に合う。間に合う。ゆっくりでいいよ。」と言い聞かせる習慣がある。それを子どもにもやってみたのだ。
さすが私の子。「ゆっくりどうぞ」と言われる方が早かったりする。安心感の中ではしっかり出来るし、何よりも「頑張るぞ!」と小さな手で靴を履くその手つきもだんだん良くなった。
実験の良いところは、失敗がないところ。仮にこれで「ゆっくりどうぞ」と言うと本当にゆっくりした、という結果になっても私は「なるほど」と思うだけで、また他の方法を探すだろう。急いで欲しい時に「急いで」も「ゆっくり」も違うなら、どんな言葉がふさわしいのかな。と。
そんな実験を幾つも重ねながら、気がつくと我が家の文化が作られていた。それは優しい言葉に溢れる雰囲気。「当たり前」を作ることは習うより慣れろ。シンプルなことの繰り返し。
言葉のチョイス
言葉のチョイスについて前述したが、学生時代は仲間内で「オレ」だの「〜するぜ」だの言っていた私も、社会に出てからは言葉を褒められる様になった。それが主に言葉のチョイスに関するものだったのは、自分では無意識だったのでとても興味深かった。
私はよく人の話を聴いて「素敵ですね」と言うことがある。本当に心を動かされたから出る言葉ではあるのだが、この「素敵」という言葉を使うことが素敵だ、と言われるのだ。そして「親御さんに感謝ですね」とも言われる。なるほど、今になってわかるのだが、これはきっと母が使っていた言葉なんだろう。バスやタクシーから降りる時に運転手の方に「ありがとうございました」と言うのも、レストランなどの食事で店を出る時「ごちそうさまでした」と言うのも、きっと周りの大人から学んだこと。それも一番身近にいた人に学んでいるのだと思う。
そこで新たな実験を思いついた。子どもたちには「ごちそうさまでした」の後に必ず「美味しかったです」と言う様に毎回自分でやって見せ、それを日頃の食事の後に当たり前に続けた。20年間。もちろん子どもたちは「ごちそうさまでした」を覚える様に、一つのフレーズとして身につけていくのだから、自然にその習慣が積み重なっていく。さて、それが今どうなっているかはまた後程書くとして。この実験の過程をまずは記しておきたい。
この実験は私なりに面白い実験だったのだが、「やり過ぎ」との批判も周りからあるだろうとも想定していた。案の定「美味しくなくてもそれ言うのか」や「そこまで言わなくてもいいよ」と周りの大人の方々に言われたこともあった。不自然に見える、と。
でもそれに関しては私は確信を持っていた。自分の言葉のチョイスが大人になって自分に豊かな人間関係をもたらしてくれたという成功体験。そして人が作ってくれたものは心にはいつも美味しくて、仮に口に合わないとしても、それをどう伝えるかはまた別の話であるということ。だから、そんな他の人の疑問にはその様に答えて(その当時は首を傾げられていたが気にしない)、子どもたちには「ご飯って美味しいね」という文化だけを共有した。
「美味しかったです」その後
さて、20年が経過した今。3人の子どもたちは全員私よりも背丈が伸び、見た目も大人と変わらない様になった。あまりにも習慣化し過ぎてあの実験のことを忘れてしまった私だったが、そう言えば毎食後「ごちそうさま、美味しかったです」と言ってくれる。今は食事を作るのは私だけでなく家族の誰かが作ってくれることが増えたが、妹が作ろうが、兄が作ろうが、姉が作ろうがみんな「美味しかったです」と挨拶をする。
「それって、呪文みたいに唱えてるだけじゃないの」と言う方もおられるだろうが、「美味しかった」と言われて嫌な気持ちになる人がいるだろうか。まず作った人を幸せにするし、また頑張ろうという気にさせる。そして綺麗な言葉は空気清浄機の様に場を綺麗にする。その空気を吸う自分も、結局幸せになるのだ。
そして私が考えなかったことがもう一つ。「美味しかった」という褒め言葉を常に出しているからか、子どもたちの口からは他の褒め言葉もよく出てくる。家庭内でも兄弟よく褒め合い、夫も私もよく褒められるのが、ありがたい。20年前の自分に見せてやりたいな、なんて思いながらこの食卓を眺める。
言葉は文化。そしてその文化は自分をプロデュースして自分を支えるものに繋がる。私の手を離れてからの方が長い子どもたちの人生、幸せな空気に包まれて生きて欲しいと願う母の、20年の長い子育てという名の実験から学んだこと。