自分に必要のない言葉を学ぶこと
私は語学講師で、英語の指導は通算20年近く。0歳児から人生の先輩方までほぼ毎日楽しく学習に携わっている。時々オンラインで日本語学習者との交流も楽しみながら…改めて語学って誰にでも与えられたチャンスだよな、と実感。出来不出来ではなく、得意不得意でもなく、敢えて言うなら興味を持つか持たないか、また使ってみるかみないか、それで分かれていると思う。会話する語学に関して言えば、本当に語学は誰にでも開かれた扉である。
初めての言葉と改めて出会ってみる
語学を教え始めて(厳密に言うと語学への向き合い方の指導)人が言葉を習得していく過程が気になって仕方ない。我が子3人のそれを見守りつつ、また大人になって英語に興味が湧いた方のヨチヨチ歩きから英語で笑って話せるところまでの伴走、言葉の可能性とそれが心にもたらすワクワクや楽しさを見ながら羨ましくなってきた。私もあの英語が通じた時の感動を改めて味わってみたい。出来れば全く知らない言語で、自分を再度生まれ変わらせてみたい。
ある方の言葉が強烈に心に残っている。
人は言葉を学ぶことで二つの人生を生きることが出来る
一つは日本人として
もう一つは国際人として
そして私は更にこう思う。その言語の数だけ新しい自分が生まれる。
実際日本語を話す私と英語を話す私は話す内容や性格が全く違う。その言語の背景も一緒に吸い込むから、きっと新しい文化や考え方の中に自分を置いて新しい自分を生み出すのだ。大きく言うとそれが日本人と国際人の違いだけれど、言語が増えればもっと新しい自分に出会えるのかも、そんな期待もあって新たな言語に取り組んでみたい欲が湧いた。
韓国語
残念ながら韓国語は若い頃から何度となく学ぼうとしてきたけれど、一向に上達しない。今思うと理由はわかっている。「使う機会がない」それから以前はそもそも「他言語を使える気がしない」というところ。
一つ目の理由は多くの方の英語に対するモチベーションと同じだろうが、二つ目に関して言うと実はこれが多くの方を悩ませる根っこに確実にあると思う。
英語など他言語を自分が話して伝わる気がしない、伝わらなかった時の心のリスクを考えるととてもじゃないけれど飛び込む気が起きない。そこだと思う。
そこで自分を使った実験。私は英語を話せる実感がなかった学生時代、もちろん韓国語も学んではいても使おうとはしなかった。まさに話せる気がしなかったからだ。
しかし大学を卒業して単身海外に渡り、英語ブートキャンプな一年を過ごした後の私は違った。それまで頭に入れていた基本的な韓国語を韓国で使っていた。「〜はどこですか?」などは簡単に通じてすぐに教えてもらえた。
海外生活で無理やり英語を使う環境に身を置いたことで、英語を使える様になり「自分の言葉が通じる」実感を手に入れたのだ。
もちろん韓国語もかじった程度なのでインプットも少なめで、使える表現は限られているが、その韓国旅行の間もなんとなく自分に課題を決めて「一日10人には韓国語で話しかける」というチャレンジをしてみた。道を聞いたり買い物の時に質問したり。「使う」ことでしか得られない感動や学びがそこにあった。
更にアラフィフで新言語スタート
韓国旅行で新たな言語を使う楽しさを実感したのも束の間、新型コロナウイルス感染症のために海外に行くことのない数年間が始まった。コロナに翻弄される中で英語の学び直しをしながら、ふと目に留まったtweetにとあるアプリの名前と新たな言語習得をした人の話があった。生徒さんから使えるアプリがあるとよく聞いていたが、私自身アプリで言葉を学ぼうとしたことはなく、興味本位で始めることにした。
そこで私が自分に課したミッションは「英語を」ではなく「英語で」。
英語話者が使うモードにして、スペイン語を学び始めた。
例えば、I eat apples. = Yo como manzanas. という具合だ。「英語で」学ぶことで、英語がホームでスペイン語がチャレンジ、という形になって私のマインドも英語モードに入れっぱなしでいる時間が出来る。一石二鳥だ。
本当に全くゼロの状態からのスタート。不思議と文法事項を学ばずにそのまま使う状態で毎日目にしていると、間違った使い方の時に違和感が出てくる感じを体験できた。この方法はいいぞ。アプリはかなり使えるもので、私自身語学の伴走でかなり使える方法があると感じた。
そして不思議なのは今までの様に「テストで良い点を取らなくちゃ」や、「来月海外旅行だから覚えなきゃ」などの目的が全く無く、私自身全く使う予定のないスペイン語。にも関わらず工夫されたアプリで楽しく学び進めている間に、言っていることがある程度わかる様になってくるのが楽しくて更に学びたくなる。その好循環が生まれているのだ。
学びの楽しさの原点を見た様な気がした
ある人が言っていた。日本人が海外の方法を取り入れて全員英語を話せる様になったら、日本は世界的に大変な脅威になってしまうから、敢えて「使えない英語教育」を充てがわれた、と。
笑えない笑い話だとも思ったけれど。でも私たちの学生時代を遡ってみても、語学の導入から学び方まで全てが「敢えて使えない様なシステム」になっているのかな、と思うことがある。テスト、テストと人を追い立てて、学び自体の楽しみを奪ってしまう。学びから遠ざかる国民の出来上がり、だ。
学校教育自体が見直されないまま、更新していくことなく現状維持でいくと、今後アプリやAIを上手に使って独自に楽しく学ぶ人が増えていくだろう。その中で大きな格差が生まれることは言うまでもないが、こうして語学に長けていく人たちが「英語を」ではなく「英語で」更に世界の教育現場から自分の学びを選びとっていき、世界に羽ばたいていくのだと思う。
学ぶ楽しさを得た人たちが飛び立っていった後のこの国はどうなるんだろう。楽しい学びが「選びし者(自分で選び取っていく人たち)」だけの特権にならないように。これ以上格差が広がらない様に。
公教育のアップデートを強く願う。