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15年間読めなかった「中田英寿 誇り」を読み、2006年ドイツW杯を思い返してみた。

中田英寿というサッカー選手が私の人生の大きなシェアを占めていた時代があった。

2006年、私はカイザースラウテルンというドイツの小さな街に訪れた。その場所でサッカー日本代表はオーストラリアとのW杯初戦で逆転負けをゆるし、そしてグループリーグを敗退した。最後のブラジル戦は力の差を存分に見せつけられての惨敗であった。その試合後、トップ画像のようにグラウンドで長時間一人倒れこんだ中田英寿はそのまま引退した。
当時の私は彼の引退とともにサッカーからしばらく離れた。

1997年の韓国戦の代表デビュー以来、中田英寿という選手に私は魅了され、彼の引退まで追っかけ続けた。全てのメディア媒体、映像、書籍「nakata.net」と彼の情報は余すとろなくチェックするほどの中田マニアだった。
中田と私は同学年なので、私の20代は中田英寿に捧げたと言っても過言ではない。

ここからは中田英寿ではなく、彼の愛称「ヒデ」でいく。

中田英寿引退はサッカー史のひとつの分岐点

ドイツW杯ブラジル戦の敗戦後、突然のヒデからの引退発表があった。
引退発表メール “人生とは旅であり、旅とは人生である” を会社のデスクトップで読んだ。

私はそれを読み終わり仕事中にもかかわらず、まさに時間が止まり何も考えられない状態になった。
混乱、悲しみ、怒り、あらゆる感情を押しとめることができなかった自分がいた。
会社であったため、トイレにこもり自分を落ち着かそうと必死であったが涙がこぼれるのを抑えきれない自分がいた。

それ以来、ドイツでの敗戦のショックも重なり、当時から今までドイツW杯とヒデの記事はなるべく避けてきた。

なぜ15年もたってようやく小松成美さんの「中田英寿 誇り」を読もうと思ったのか。
それは今年の元日に天皇杯決勝を新国立競技場で観戦し、40歳まで現役を続けた中村憲剛の最高に幸せなサッカー選手の引退を見届けたからだ。

私はケンゴのサッカー人生を考えると同時に、かつて追いかけていた私のヒーローである中田英寿の引き際を思い出さずにはいられなかった。
29歳という若さで、しかもあんなにも無惨な負け方で引退をしたヒデを未だに消化しきれていない自分自身を精算させる気持ちで「中田英寿 誇り」を読んでみたいと考えた。

中田英寿の軌跡とカイザースラウテルンの悲劇を振り返る

2006年ドイツW杯当時の私自身の思いや体験を思い出してみたい。

当時のジーコジャパンは選手の自主性や自由な発想を重視するという、前監督トルシエの規律重視とは真逆のサッカーであった。
それは、サポーターとしては夢のあるサッカーであり選手選考もスター性をもった選手が多くラインナップは華やかなものであった。

トルシエ時代においてもヒデと俊輔というファンタジスタを共存させるかどうかという問題があったが、トルシエはヒデを選び俊輔を代表から外した。

対してジーコは共存させる道を選び、ヒデのポジションを下げることで問題を解決させようとした。

当時の私はヒデがボランチに下がらずをえない状況に苛立ちを感じていた。フィジカル強度が高いため守備面も問題ないが、私はヒデにもっと自由に攻撃に専念させてあげたかった。

当時の中村俊輔はスコットランドのセルティックで確かに活躍していた。
確かにスコットランドの中では俊輔は飛び抜けたテクニックで違いを作りだし活躍ができていた。しかし、当時の世界トップレーグであるセリエAのレッジーナにおいては輝けなかったことは事実である。

テクニカルでスピードがある選手は日本代表にはいくらでもいる。
ジーコは俊輔の止まっているボールを蹴る技術、すなわちFKやセットプレーのキッカーとして残したかったに違いない。

ヒデは日本ではキラーパスが代名詞になっていたが、それは海外にでる前のプレーの印象だろう。
彼が世界レベルでやっていけたのは、強靭なフィジカル、体幹で突き進む力強いドリブルと正確なインパクトで蹴る強烈なミドルシュートである。
そして彼には勝敗を決める決定的な場面で必ずものにしてきた勝負強さがあった。

①初のW杯を決めた、ジョホールバルでの岡野のゴールに結びついたドリブルシュート。


②セリエAデビューのユベントス戦における鮮烈な2ゴール。

③2001コンフェデレーションズカップ 準決勝、土砂降りの雨のなか、地を這うような豪快なフリーキック。

④2001年ローマ時代のユベントスとの天王山決戦。

2点リードされて後半60分トッティと交代してからのヒデの強烈なミドルシュートのゴラッソ。
そして、アディショナルタイムまたもゴール左サイドのペナルティエリア外からのヒデの正確なコースをついたミドルシュート。それをファン・デル・サールが弾いたところにモンテッラの同点弾。

印象的なシーンを上記にあげてみたが、特に④のASローマにスクデットをもたらした2得点はローマの人々にとっても「NAKATA」は10年以上たった現在でもレジェンドである。

当時のユーベの面子にはジダン、デルピエロ、トレゼゲ、ダービッツ、ザンブロッタとまさにドリームチームだった。

一方、スクデットを獲得したローマもトッティを筆頭にバティストゥータ、カフー、エメルソン、トンマージと凄いとしか形容できない選手ばかりである。
ヒデがこの仲間たちと共にプレーし、そして結果を残してきたことは歴代日本人最高のサッカープレーヤーであることの証である。

ローマというビッグクラブ、しかもトップ下にトッティというバンディエラがいるなかで、中田は外国人枠の問題もあり出場機会がなかなか得られない時期もあった。ローマ時代は記録より記憶を残した選手であった。

つい書きたいことが多くなってしまうが、2006年の時点でも個人として世界と対等に戦える選手はヒデだけであると私は考えていた。

当時の私は仮にボランチとしてヒデを使うのであれば、相方は福西ではないと思っていた。
福西はジュビロ入団時はFWの選手として入団した選手である。
彼はヒデと同い年、どちらかといと気性が荒い選手でありヒデと同じくゴール前にでていくようなダイナミズムな動きが特徴の選手である。
案の定、ヒデと福西は練習中に口論となることがしばしばあった。

ヒデの能力を最大限に活かすのであれば、ボランチの相方はより守備的でオシム風に言えば「水を運ぶ選手」である必要があった。

オシム時代は鈴木啓太という守備に特化した素晴らしいボランチがいて、中村憲剛はボランチながら攻撃のタクトに専念できた。

2006年当時の代表メンバーから鑑みると中田浩二が適任ではないかと私は考えていた。
いずれにせよ、ジーコは福西の身体能力を評価しレギュラーとした。

私はジーコの起用に不満を抱きながらも、1週間の有給を申請しドイツへと旅立った。

2006年W杯期間中ということもあり、当時ルフトハンザ航空の成田ーフランクフルト往復料金は異常に高騰しておりエコノミーで35万円ほどだった記憶がある。

フランクフルトに到着すると、街はワールドカップ一色でとても華やいでいた。
ビアホールでたらふく地元ビールを飲んで、オランダやイングランド、ドイツの人々と交流できたことは楽しい思い出である。

もちろん共通語は「Foot ball」であり、各国の選手名を呼び合い、日本については「NAKATA」ですべてが通じ合えるのである。

2006年6月12日ドイツワールドカップにおける日本の初戦、私はフランクフルトから電車で2時間ほどかけてカイザースラウテルンというこじんまりとした街におりたった。

オーストラリアの黄色いシャツをラガーマンさながらのオージーサポーターが想像以上に多く、一様にカンガルー人形を持っていたことを覚えている。
そして競技場への道すがら、三都主ファミリーや巻誠一郎の家族に出会ったことも懐かしい思い出だ。

当日の気温は30℃を超える真夏の暑さであり、ピッチ上では相当な気温になっていくことが想像できた。
私は友人3人でビールを大量に買い込み、ゴール裏上段の席についた。

試合前の興奮と緊張と予想外の暑さでビールを3杯も飲んでしまった。

そのせいか試合前の君が代斉唱では感極まって胸がいっぱいになった。
元同盟国ドイツの地で国家を歌うことに、謎の右翼的な感慨深さを感じていた。

試合は暑さと酔いで正直正確には覚えていない。
前半20分すぎの中村俊輔のクロスボールが高原と柳沢そして相手GKと交錯してそのままゴールした。
目の前のゴールでの出来事ながら最初は何がなんだかわからないままの先制点であった。

前半、ヒデと前線の柳沢、高原が懸命にプレスに走っていたことも覚えている。

1-0のまま無事に前半終了。

そして悪夢の後半を迎える。

後半早々に坪井が足がつり、茂庭に交代。
とても嫌な予感がしたことを覚えている。
それは田中誠の負傷により、茂庭はハワイ旅行中に急遽トンボ帰りしチームに合流した経緯を知っていたからだ。
ワイハ気分ではこの戦場では戦えないのでは、と感じていた。

後半は日本のゴールの目の前なので、デフェンスラインの低さがよくわかった。
そこをオーストラリアにつかれ、日本は川口中心にブロックをしいて凌ぐのが精一杯な展開になっていく。

「ヨシカツ!ヨシカツ!」
と川口のナイスセービングのたびに何度も叫んだ。

ケイヒル、ケネディとオーストラリアは次々とFWを投入してくる。

日本もカウンター狙いのロングパスを送るが、後半20分くらいからか高原と柳沢の足がピタッと動かなくなってしまった。

そして、アロイージの交代で3枚のFWを投入してきた。

ラグビー選手のような屈強な肉体をもったオーストラリア選手が怒涛のように日本ゴールに襲いかかってくる様子は恐怖でしかなかった。

ロングボールで反撃しようとしても、2人のFWと中村俊輔は全く動けない。

「なぜジーコは動かないのか!早く動けないFWを替えろ!」
と、私は訳のわからない狂人のように吠えまくっていた。

そして後半34分にようやく交代カードをジーコがきった。
柳沢敦と小野伸二が交代したのである。
ピッチにいる選手や小野本人でさえも交代の意図がわからなかったと後日談として言っていたが、現場にいた我々サポーターもジーコの戦術意図がまったくもってわからなかった。

あきらかに前がかりになっているオーストラリアDFの後ろには広大なスペースがあり、そこをロングボールでつければチャンスがあるのである。
相手のDFもこの猛暑で相当疲労している。
だからこそ一発のロングカウンターを狙うのが有効であると私は感じていた。
そして小野ではなくスピードのある玉田が必要なのではないか?

案の定、小野はトップ下あたりでボールを追っかけるのが精一杯で効果的なプレスがはまらず、オーストラリアの波状攻撃が続いた。

そして、残り10分のところでロングスローから、川口が飛び出したがボールにさわることができずに押し込まれて失点。

その後のことは目の前の出来事ながら、よく覚えていない、、、。
日本選手、サポーターの中で緊張の糸がプツンと切れたのだと思う。
あっという間に逆転され、ロスタイムにも追加点。

3−1であっけなく試合は終わった。

後半の日本チームは酷暑せいなのかまったく走ることができなかった。
そして、試合の方向性がチーム内で共有できていなかった。
守りきるのか、カウンターで追加点を狙うのか?
ジーコは何がしたかったのか?
選手たちは何がしたかったのか?

ヒディング監督によるFW3枚投入により、オーストラリアの選手はとにかく攻撃的にゴールを狙う、という明確な意図がチーム全体に共有されていた。

負けて当然の試合だった。
「カイザースラウテルンの悲劇」は悲劇ではなく必然の結果だった。

その日の夜、何人かの日本人サポータとビールを飲んだが、何を話したのか全くといっていいほど覚えていない。
しかし、その日のドイツビールは発泡酒のように味気ないものだったことを覚えている。

「中田英寿 誇り」の感想

15年の歳月を経て、44歳になった私が「中田英寿 誇り」を読んで思ったことを書きたい。

小松さんのリアリティあふれる描写とヒデとの信頼関係の深さにより素晴らしいスポーツルポタージュに仕上がっており、当時のことが鮮明に思い出された。

この本により2006年の日本代表チームは負けるべくして負けたことをあらためて実感できた。

ジーコは人格者であり素晴らしい選手であったが、監督としては現代サッカーではありえないマネージメントをしていた。
何より驚いたのが、戦術ミーティングをまったくしていなかったという事実である。
そして、あのオーストラリア戦のメンバーに微熱が続いていた中村俊輔をだしたこと。
相手のヒディング監督との差があからさまにでた試合であった。

小松さんのルポの中で私の知らなかった事実として挙げられることとして、

●マネージメント会社の次原さんとフジタさんという二人の女性が魑魅魍魎としたサッカービジネス界において孤軍奮闘し、ヒデの海外クラブ移籍を進めていった経緯。

●ドイツの5月中は真冬のコートが必要なほどの寒さであったこと。

●2006年3月の時点でヒデはW杯を最後に引退を決めていたこと。

●直前のマルタ戦のハーフタイムにおけるジーコとヒデの会話でチームメイトがヒデの言動を誤解し、チーム内が分裂してしまったこと。

上記のことは当時の私はまったく認識していなかった。

今になっていえることは、29歳のヒデはゼロか100かの白黒思考の完璧主義の人間であったことは間違いない。
そして、メディアの前ではクールに装ってしまい世間の人々から誤解を招きやすい青年であったことである。

しかし、彼のファンに対する文章や村上龍の著作からにじみでる人柄はとても純粋で人に配慮できる優しい人間性の持ち主であることだけは間違いのない事実であることは中田ファンの私は当時から知っていた。

そして、この本の中で中田という人間は自分をサポートしてくれる人たちへの思いやりを持ち続け、プレーしていたことがよく描かれている。

上記の記事を読んでいただきたい。
現在のサッカーでもJリーグとヨーロッパサッカーは「競技が違う」と酒井高徳も内田篤人も公言している。

ましてや2000年あたりのセリエAという化け物リーグとJリーグではルールが同じだけの「全く別の競技」ととらえてもおかしくない。

世界最高峰のリーグでやっていたヒデとJリーグの国内組がコミュニケーションを取り合いながら、同じ方向でチームとしてやっていくことは不可能にちかい。
繰り返すようだが、違う競技をやっている選手同士が分かり合えることは絶対にない。

そういう意味でもトルシエのようなトップダウンで徹底した規律のある戦術家タイプの監督で継続していた方が2006年のW杯も違ったものになっていただろう。

著書にも出ていたがヒデの有名な話として、
「中田英寿が最もサッカーが上手かったピーク時は小学生時代であった。」

小学生時代のヒデは敵、味方、ボール、後ろを振り向かなくてもすべてが見えていたそうだ。
しかもどこにボールが飛んでくるかも全部わかっていたのである。

ヒデは小学生の自分が最大のライバルであり、あの時の完璧なプレーを目指してサッカーをし続けてきたのである。

すべて俯瞰で見えていて、ボールの行方まで予知できるサッカー選手がいたら、マラドーナ、ジダン、メッシ、クリスティーノ・ロナウドを超える凄い領域のプレーヤーである。

ヒデという完璧主義者はそういう自分自身の理想を追い求めた孤独なサッカー選手であった。
彼が団体競技ではなく、テニスやゴルフのような個人競技の選手であったらよりストレスが少ない人生を送れたように思う。

小学生でサッカーの究極の境地に達し、各年代別の日本代表として世界と戦い、日本サッカーの歴史を塗り替え、ヨーロッパの舞台で活躍し世界の「NAKATA」と呼ばれるまでのプレーヤーとなった中田英寿。
早熟な天才肌で自分の理想のサッカーを追い求めるゆえにチームメイトや監督との確執に苦悩し、孤独のまま若くして引退してしまったヒデ。

一方、高校入学時でも154cmと小柄で華奢な体格で懸命に努力し続け、日本代表、36歳でJリーグMVPまで登りつめた大器晩成型の中村憲剛。
フロンターレ一筋18年間でチームメイトや地域のサポーターに愛され、40歳までゲームを俯瞰したようなプレーを追い求め、最高に幸せなフィナーレを自ら引き寄せたケンゴ。

どちらのサッカー人生が良かったなんて比べられない。

しかし、私はこの二人の選手を追いかけて観続けられたことを本当に幸せに思う。


*このような長文にお付き合いいただいき、誠にありがとうございました。⚽️







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なみへい
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