ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」に心が置き去りにされた話。
松たか子が主演のドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」に夫婦2人してハマっている。
この記事はネタバレが多いに含まれているため、今から観たい方には読まないで頂きたい。
このドラマは題名通り、大豆田とわ子と三人の元夫の物語である。
第1話から5話目までは、三人の元夫、幼なじみの親友かごめと大豆田とわ子との軽妙な会話とそれぞれのぶっ飛んだキャラの展開が面白くもあり、どちらかといえばシュールなコメディタッチのドラマであった。
最後に主題歌が流れるのだが、主旋律を歌う松たか子は変わらない。
しかし、毎回違うラッパーが出てきて独自のリリックで楽しませてくれる。
ドラマも3人の元夫と親友かごめの独特なセリフに、大豆田とわ子が「そうなんだー。」と当惑した顔芸が定番のシーンであった。
3人の元夫である松田龍平、角田(東京03)、岡田将生、そして親友の市川実日子という個性的な役者達が、まるでラッパーのように見事なリリックと個性的なフローをセリフで表現しているようだ。
その各々のラップを受け入れる松たか子の演技がただただ良いのだ。
彼女にしか出せない気品と表情がただただ良いとしか言えない。
そんなこんなで毎週火曜の夜この『まめ夫』と呼ばれるドラマを夫婦で楽しんでいた。
しかし、第6話でこのドラマの根本が変わってしまう。
それは私たち夫婦の心を置き去りにされるくらいの衝撃であった。
第6話の前半は3人の元夫たちと関わる3人の女性が一堂に会し、彼らのダメなところをけちょんけちょんに批判し、それぞれのカップルの別れを描いていた。
サブタイトルで「全員集合地獄の餃子パーティー」と名付けられたこの公開処刑イベントが、劇中の元夫たちにとっても、見ている視聴者にとっても、長い長いとわ子不在の時間だったことだろう。
「僕たちがさっき指摘されたようなこと、彼女から責められたことありました? こんなだめな3人なのに、彼女はそこを怒らなかった。僕たちは、大豆田とわ子に甘えてたんです。」
ここにいないからこそ、大豆田とわ子の存在感をより強く意識させられる。
私たちはそんな前半の展開に完全に油断していた。
そこに、かごめ(市川実日子)の突然の死である。
私は悲しさより、このドラマの路線変更と唐突さに呆然とした。
そして隣を見ると、妻の目からボロボロと涙が落ちていた。
私のドラマや映画の見方はいつもフラグ探しに躍起になっている。
「最後の晩餐はコロッケかな」
「実家でお葬式あげられるのだけは嫌だから」
「大人になるまでまだ多分100年くらいかかるし」
「生きて見届けたいな」
「今日仕事終わったら靴下買ってきてあげる」
「今晩、誕生日プレゼントで最初の読者にしてあげるよ」
このようなセリフに薄々かごめの死の兆候を感じ取っていた自分がいた。
しかし、妻はそのような見方はまったくしない。
素直にかごめの突然死と、それを容認できずにかごめのパーカーの紐を修復する大豆田とわ子のリアルな描写に完全に心を持っていかれていた。
コロナ渦で誰もが死に直面する世の中で、このドラマは私たちにその現実をつきつけたのである。
コロナだけでなく地震や交通事故など死というのは理不尽に突然に訪れるという事実。
だからこそ、その人を日頃から大切にしていくという当たり前のことを教えられた。
そして、このロマンスコメディ路線のドラマから一変して、残された人間である大豆田とわ子の死を受け入れられない言動が、松たか子の深い演技力によって描かれていく。
そして、かごめの死後1年経ってからの話が第7話となる。
ベッドでは寝ずに、ソファーで眠り続ける大豆田とわ子。
きっと熟睡するとかごめの夢を見ることに恐れているのだと思う。
1年以上たっても、かごめの死を整理できないでいることがあらわれている。
15年前から、それよりもっと前から、大豆田とわ子と田中八作(松田龍平)にはかごめの存在があって、それは二人しかわからない思い。
それがあの「ごめんね」の短いやり取りに閉じ込められている。
私は松田龍平のどんよりとした深い暗闇を秘めた目からの「ごめんね」にグッときてしまった。
大豆田とわ子だけじゃなく、田中八作の心も誰かが救ってあげてほしいと強く願ってしまう。
そこで、ラジオ体操で出会った謎の男オダギリ・ジョーの登場である。
大豆田とわ子はこの出会ったばかりの男に語り出す。
「あいつのこと忘れちゃってた、また一人にさせちゃった、って思います。誰にも言えないし、すごい孤独です。こんなんだったらそっちに行ってあげたいよって思います。」
「みんな言うんです、まだ若かったしやり残したことがあったでしょうね、悔やまれますよね、残念ですよね」
「だったら私たち、大人になんてならなくてよかったなって」
そこでオダギリ・ジョーは大豆田とわ子に優しく語りだす。
「人間にはやり残したことなんてないと思います。過去とか未来とか現在とか、そういうものって時間って別に過ぎていくものじゃなくて、場所っていうか別のところにあるものだと思う」
「人間は現在だけを生きてるんじゃない。
5歳、10歳、30、40。その時その時を懸命に生きてて、過ぎ去ってしまったものじゃなくて、
あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、今も彼女は笑っているし
5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手を繋いでいて
今からだっていつだって気持ちを伝えることができる。
人生って小説や映画じゃないもん、
幸せな結末も悲しい結末もやり残したこともない。
あるのはその人がどういう人だったかっていうことだけです。
人生にはふたつのルールがあって、
亡くなった人を不幸だと思ってはならない。
生きてる人は幸せを目ざさなければならない。
人はときどきさびしくなるけど人生を楽しめる。
楽しんでいいに決まってる」
素晴らしい言葉であり、私は素直にこの言葉に同調した。
このオダギリ・ジョーが演じる役の男は日常の人間の行動を数式で計算するほどの数学オタクなのである。
相対性理論の時間は人によって流れ方が違い、自身の動きが加速し、光の速さにかぎりなく近づくと、自分はほかの人たちから見てほとんど止まっているのである。
つまり、自分にとっての1秒は、まわりにとっての1,000年にもなりうる。
そういったことから、数学オタクのオダギリ・ジョーは上記の見解がでてきたことだと推測される。
それにしても、その通りであると私も考える。
私は早くに母を亡くしたが、母との楽しい時間は過去ではなく、今でも確実に私の中に存在していると思えるからだ。
そして、母がガンで苦しみ早逝したこと、それ自体は不幸かもしれないし悲しいことだが、それを母の人生全体の印象のようになってしまっていることは母にとって不本意なことなのではないかとも思っていた。
「オダギリ・ジョーよ、お前いいこと言うなー。」
と私は深く彼の言葉を噛み締め、目からじんわりと液体が出そうになった。
大豆田とわ子もこのオダギリ・ジョーの言葉によって癒され、かごめの死を受け入れることができたのだ。
そして、1年ぶりにベッドで大豆田とわ子はゆっくりと眠ることができた。
ところが次のシーンでまたしても私と妻は心を置き去りにされる驚愕の展開となる。
大豆田とわ子が社長をつとめる会社が外資の投資会社に売却されたという。
株買収を指揮していた本部長が来社し、取締役選任会議を行うことに。
とわ子は、本部長の姿を見て驚く。
それが、あのオダギリ・ジョーだったからだ。
しかも、元社員の告発文により、とわ子のパワハラ問題が取り沙汰され、彼から解任決議案を出されてしまった。
翌日、いつものようにラジオ体操をしているとそこにオダギリ・ジョーの姿が。
私は双子の設定かと思った。
いや、思いたかった。
大豆田とわ子は驚きながらも、
「昨日、私の会社に来た人に似ているのですが…」
というと、オダギリ・ジョーは屈託もない笑顔でこう言った。
「だって、昨日お会いしたのはビジネスじゃないですか。これはプライベートでしょ?」
オダギリ・ジョー、、、。
大豆田とわ子の心を解きほぐした天使かと思いきや、悪魔のサイコパスであった。
このような急展開に私たち夫婦の心が追いつかない状況ではあるが、当分はじっくりこの「まめ夫」沼にドップリハマっていくことであろう。