今だけ我慢しなさい、という呪文
私達が触れることが出来るのは「今」だけです。
何年経っても色褪せること無く、昨日のことの様に思い出される思い出は、どんなに色鮮やかで有ろうとも、それは思考が創り出す想念です。
まだ見ぬ未来に、どんなにときめいても、いつか来る苦難を予想して、どれ程不安にかられても、それも思考が創り出す想念です。
過去や未来がどんなに生々しく感じられても、私達が触れることが出来るのは「今」だけ、なのです。
私は、機能不全家庭に育ちました。
振り返ると、親から嫌と言うほど叩き込まれたことは、ことごとく私を苦しめる教えだったとつくづく感じています。
機能不全家庭は、子供を犠牲にして、親が自分の抱える無価値感から目を背ける仕組みです。
だから、親の教えを守れば守るほどに、子供は苦しくなって行くのは、必然です。
叩き込まれたことは、一から十まで親が生き、子供が犠牲になることばかりですが、
中でも、こたえたのが、
「今だけ我慢しなさい」という呪文です。
その呪文は、幼い私から、好きなこと、好きなもの、をことごとく奪いました。
純粋な興味、関心、好奇心を持つことが出来なくなりました。
純粋な興味、関心、好奇心は人生を進む為のエンジンです。
エンジンを失い、推進力を失ったなら、漂う様に生きながら、活き活きと生きているフリをする様になります。
砂を噛む様に味気無く、自分の人生に興味が無くなります。
何もかも、まるで他人事なのです。
「以前あんなことをしてあげたんだから、今だけ我慢しなさい」
「大きくなったら好きなことをしていいから、今だけ我慢しなさい」
聞く度に絶望しました。
この呪文が親の口から放たれたら、もう自分には何の自由も無いのです。
不服そうにすることも、泣くことも、怒ることも、我が家では禁じられていましたから、呪文が発せられたら、無表情で立ち尽くすしか無いのです。
さもなくば、ひどい目に合わされます。
私達が触れることが出来るのは、「今」だけなのに、
「以前あんなことをしてあげた」と言い、
過去を見よ、と、
「大きくなったら好きなことをしていいから」と言い、
未来に生きよ、と言うのです。
触れることが叶わない過去と未来に生きよ、「今」を諦めよ、と言います。
人生は触れることが出来る「今」の連なり、と言えます。
「今」を取り上げられる、ということは、人生を取り上げられる、ということです。
思い出すと、色々とむごたらしい事をされたものだ、と思うのですが、
事ある毎に、繰り返し唱えられた、この呪文は、幼い私にとっては絶望の響きでした。
私の絶望が大きいからこそ、親は効果絶大な呪文として繰り返し唱えた訳です。
現在私は、親の教えに背いて生きています。
呪文は効力を失いました。
本業、副業、趣味と忙しくしながらも、自分で言うのもアレですが、活き活きと生活しています。
勿論、望まない出来事も日々起こります。
でも、呪文の効力が無くなった今、望まない出来事の中にも楽しみを見つける様になった気がしています。
この望まない出来事を自分はどう打開するのか、と少し不謹慎な言い方をすれば、ゲーム感覚で楽しんでいます。
趣味は趣味で、仕事の事も何もかも忘れて全力で楽しみます。
機能不全家庭に育っても、楽しむ事が出来る様になった自分、を楽しんでいます。
今を楽しむこと、が出来る様になったから思います。
育った環境によって、「今」を諦めざるを得なかった人は沢山いる事でしょう。
しかしもう、幼くて無力な存在ではありません。
呪文の効力は、とっくに切れています。
今日も「今」を諦め、過ぎた過去を憂い、まだ見ぬ未来に慄いて生きているならば、
そろそろ、「今」を生きることを解禁しても良い、と思うんです。
諦めて、我慢を重ねて来た人が、少し我慢を忘れたからといって、本当に困ったこと、は起らないと思ってます。
無軌道に生きることを薦めている訳ではありません。
あまりにも我慢ばかりをしていないか、一度考えてみて欲しいのです。
思い当たったら、どうしてそうなったのか、考えて欲しいのです。
縛り付ける呪文を見つけて欲しく思います。
過去には生きられません。
未来にも生きることは出来ません。
私達は「今」に生きます。
「今」の連なりが人生ならば、
幸せな「今」を集めたら、
幸せな人生になります。
「今」を諦めたら、諦めの人生、
「今」我慢したら、我慢ばかりの人生になります。
人生を変えることは、難しく思えますが、
「今」を変えることは、誰にも、すぐにでも出来ます。
幸せな「今」を感じて、
それを沢山集めたら、
幸せな人生になるんです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム