この世の矛盾を嘆く人
眩い光が何かを照らせば、そこには必ず深い影が現れます。
光と影は表裏一体です。
母ライオンは子ライオンに狩りの仕方を教えるそうです。
母ライオンが自分で狩りをすれば、たちどころに仕留める事が出来る子鹿を見つけると、母ライオンは手を出さず、子ライオンに狩りをさせます。
子ライオンに狩りの訓練をさせる訳です。
ライオンに光りを当てると、子ライオンが大自然で生き抜く為の手ほどきをする母ライオンは、優しさのカタマリに思えますし、
母に応える子ライオンは健気です。
ライオンに光りを当てた時、出来る影は、そこで幼い生命を散らす子鹿であり、子を失う母鹿です。
鹿の親子に光りを当てれば、健気なのは子鹿であり、優しさのカタマリは母鹿です。
深い影が、鹿の親子に忍び寄る恐ろしいライオンの親子です。
私達の生きる世界は、光りと影、ポジティブとネガティブは一対になっています。
第二次世界大戦の真珠湾攻撃は、日本軍に光りを当てれば、強大な敵国と、知恵と勇気で戦う話しになり、
光りが米軍に当たれば、日本軍は卑怯な奇襲攻撃によって不意打ちをした賊軍になります。
自然界のライオンと鹿も、
人間界の真珠湾攻撃も、
光源を何処に置くか、
光りを何方から当てるのか、
に依って、深い影が出来る方向は変わってしまいます。
つまりもともと、この世界は矛盾を内包しているもの、と言えます。
それが、この世の仕組みであるならば、ライオンとして生まれた者は、ライオンとして生を全うし、
鹿に生まれついたなら、鹿の生を全うするしかありません。
ライオンも鹿もそのことを憂うことなどありません。
彼らは、ただライオンとして、ただ鹿として生を全うします。
この世に矛盾があろうとも、憂うこと無く、嘆くこと無く、羨むこと無く、ただ生きる、その姿は自然に寄り添った崇高な在り方に思えます。
私達人間は、動物でありながら、思考することに突出した能力を有する稀有な生き物です。
ライオンが狩りをする様に、鹿が草を食む様に、人間は当たり前に思考します。
生きとし生けるものを創り給うた創造主が在る、として、
おそらくは、人間に思考する力を与え給うた意図は、よりよく生きる為、だと思うのですが、
人間は、その力の多くを憂い、嘆き、羨むことに、費やしている様に思います。
だから、この世の矛盾を、他の動物達に倣って受け入れることが出来ません。
思考する力を、よりよく生きることに使えないのは、創造主にして誤算だったとしても、
憂い、嘆き、羨む生き物になってしまった私達が出来ることは、
先ず、この世に矛盾はある、ということを知ること、だと思っています。
明るい光りを求めるならば、深い影をも受け入れることと、一対であると、知ることだと思うのです。
せっかく手にした、思考する力を憂い、嘆き、羨むことに使うのは、豊かな感じ方を阻害します。
相手の立ち場に立ったり、相手を慮ることが難しくなります。
ライオンはライオンの世界線を生き、
鹿は鹿の世界線を生きていて、
狩る子ライオンも、狩られる子鹿も、健気な存在です。
両者は決して一つの見方から捉えることは出来ません。
真珠湾攻撃も何方が正義で何方が賊軍と断じることは出来ません。
光りを右から当てれば影は左に伸び、
左から当てれば、影は右です。
もともと、この世界は個々の世界線から成り立っていることを頭の片隅に置いていれば、
憂いも、嘆きも、羨みも、随分和らぐのではないか、と思うんです。
そして相手を自分の尺度で測るということも、自分の価値観を押し付けたいという欲求も減る、と思います。
自分は自分、相手は相手、別の世界線、というと、冷やかである、と感じる人が多い様に思っています。
本当は、自は自、他は他、と分けることは、相手を尊重する、ということです。
自分と他人の心理的境界線が曖昧だから、相手を自分の尺度で測りますし、自分の価値観にはめ込みたくなります。
つまり、この世に矛盾はある、と捉える事が、
個々の世界線を認める事であり、
個々の世界線を認める事は、相手を尊重する、ということです。
創造主の誤算とも思える、憂い、嘆き、羨みに執らわれがちな私達は、
せめて頭の片隅に、この世に矛盾はあって当たり前、という捉え方を持つことは、
他者を慮り、自分を大切にする為に、
人生を軽やかに歩む為に、
大切なこと、だと思っています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム