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なぜ連鎖するのか

次の様に話すと、疑問を投げかけられることが多くあります。


生きづらい人は、愛の無い人々に囲まれた環境で育った人です。

親もかつて、その親から尊重されず、否定される幼少期を過ごした人で、

つまり、親も、おじいちゃんもおばあちゃんも、おじさんもおばさんも、いとこまでも、愛を知らずに育った人々であり、

それは機能不全家庭が世代間で連鎖した、ということです。


そうお話しすると、
「でも、もし母方の家系がそうでも、父方の家系は機能不全家庭ではない可能性が高いですよね、だったら機能不全家庭が連鎖することは少ないのでは?」

そう問われます。


しかし、機能不全家庭は高確率で連鎖します。


私達は人間関係の雛形を親から譲り受けます。

つまり、幼少期の親子関係が、その子の人間関係の基本になる、ということです。

幼い子にとっては、親が世界の全てです。

幼稚園、小学校と人生が先に進むに連れ、外の世界に触れますが、

外の世界に触れる前に、幼く白く柔らかい心を、愛に包まれる環境で、肯定的に受け容れられて、尊重されて過ごすか、

貶められ、虐げられ、拒絶されて過ごすのか、が分かれ目なのです。

幼稚園に入る頃には、人間関係の雛形は、おおよそ出来ています。

幼稚園から先は、雛形に、肉付けをして行く段階です。


健康的な家庭に育ち、愛情を注がれ、肯定的に受け容れられ、尊重された子には、自分の存在に対する安心感があります。

その子の対人関係の雛形は、安心感で出来ています。

機能不全家庭で育った子は、貶められ、虐げられ、拒絶されて育った子です。

その子は、生まれた時から、その環境しか知らないので、その環境が如何に過酷なものなのか分かりません。

分かり様が無いのですが、幼稚園に入る頃には、その小さな背中に既に生きづらさ、という重たい荷物を背負っています。

荷物を背負ったその子の手には、親からもらった対人関係の雛形が握られています。

その雛形の主な原材料は、無価値感です。


幼い頃は、親が世界、親が全て、ですが、先に触れた様に、幼稚園、小学校、中学校と人生を進むに連れて、徐々に家庭を離れた世界のウェイトが増して行きます。

友人、先生、色んな人がその子の人生に登場します。

その子の世界、その子の人間関係が構築されます。

そうやって人間関係が構築される時の、尺度、基準が親からもらった人間関係の雛形です。

自分の人生に登場して来る人達を、人間関係の雛形に照らし、測り、判断します。

安心感で出来た雛形を基準にする子は、親と同種の、優しさや愛を持った人に親しみを感じ易い、と言えます。

無価値感で出来た雛形に照らし、測る子は、やはり親と同種の人物に引き付けられ、
雛形に照らして見て、合わない人とは親しくなり難いのです。

愛ある人を避けます。
優しい人を遠ざけます。

平たく言うと、人は幼少期に慣れ親しんだタイプの人物に親しみを覚えるのです。

それは、出逢った双方に言えることで、言わば互いに惹きあう、ということです。

人間関係に悩み、職場を変えても、また同じ様な人間関係を抱えたり、
いつも恋人に裏切られたり、といった事も、その人間関係の雛形を尺度にしているから、だと思うのです。


安心感の雛形を持つ人は、安心感の雛形を持つ人と惹き合い、

無価値感の雛形を持つ人は、無価値感の雛形を持つ人と惹き合います。


健康的な家庭と機能不全家庭は、少し違う、といったものでは無く、

180度違っています。

例えば、子供の反抗期を、
健康的な親は、寂しさを覚え、面食らいながらも、子供の成長と捉えます。

機能不全家庭の親は、子供の裏切りと捉えます。

真逆なのです。


100%では無いですが、相当な高確率で、無価値感は無価値感と惹き合うのです。

惹き合った結果、機能不全家庭で育った生きづらい人は、同じ様な境遇の人と家庭を持ち、

機能不全家庭の家系は、世代間で連鎖するのです。


その連鎖を断つには、その家系の誰かが自分の生きづらさに気づき、

家系を何とかしたい、では無く、
親を救いたい、でも無く、

自分の生きづらさを手放し、望む人生を歩く決断をすること、だと思います。

私達が自由に出来るのは、

自分自身の心だけ、です。

負の連鎖を断つことは、

自分の心の負の要素に気づき、

恐れず対峙し、

自分自身を救うこと、だと思うのです。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム



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