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機能不全家庭は、他人には見えづらい

機能不全家庭は、親が自分の無価値感から目を背ける為にあります。

その親は心の傷が、あまりにも深く、大きく、
傷口からほとばしる血の様な無価値感を自分で受け止めることが、もはや出来ません。

だから、我が子を使って目を背けます。

心の傷からほとばしる血を止める方法は二つ、

痛みを受け容れ、心の傷と対峙するか、

自分の血を全て受け止めてくれる存在を見つけるか、です。

心の傷と正面切って対峙するのは、痛みも伴えば、とてつもない恐怖も感じます。

しかし、自分の無価値感をそっくり受け止めてくれる相手を探すことには、痛みも恐怖もありません。

したがって、無抵抗な存在を見つけた無価値感に苛まれる人は、その存在を犠牲にすることで、痛むこと無く、恐怖からも逃れ、ほとばしる血を止めることを選びます。

世の中には、そうやって生き延びる親が、驚くほど沢山います。

犠牲になる、無抵抗な存在は、子供です。

親子関係に於いて、幼い子供は無力です。

親がいなければ生きて行けないのは、純然たる事実です。

無力な子供に唯一備わっている能力は、親を慕う力です。

無力だから何があっても、親を慕う様に出来ています。

慕って、慕って、慕い尽くします。

心に深い傷など持たない健やかな親は、その慕う我が子に尊さを見ます。

愛おしく思い、愛を注ぎます。


心の傷から流れ落ちる血を止めたい、無価値感に苛まれる親は、慕う我が子の姿を、絶対服従の姿勢と見て取ります。

何をしても、どう扱っても、自分を慕うこの世でたった一人の存在です。

健やかな心を持つ親は、我が子の尊さを見て、かけがえの無い存在、と感じます。

無価値感に苛まれる親は、我が子に絶対服従の姿勢を見て取り、やっと手に入れた無価値感を全てそっくり肩代わりしてくれる、替えの効かない存在、と感じます。


無価値感に苛まれる親は子供を、替えが効かない道具として所有している、のに、

それを、かけがえの無い存在として愛している、と思っています。

道具として重宝し、愛でることと、
存在を尊重し、愛することの、
違いがその親は、わかりません。

何故ならその親も、
道具として重宝されたことはあっても、
人格を尊重され、愛された経験が無いからです。

無条件に受け容れられるべき時期に拒絶され、
人格を尊重されること無く、利用されたことが、
その親が無価値感に苛まれる人になった理由です。

その親の心は、遠い昔、幼い頃に凍りつき、情緒は成長の歩みを止めています。

見た目は親であり、立派な大人でも、情緒は未成熟で、極めて幼児的です。

その幼児的願望に衝き動かされて生きています。

情緒が幼いから、世間から褒められたい、のです。
だから、子供の尻を叩きます。
優れた子であること、
賢い子であること、
明るい子であること、
優しい子、勇敢な子、礼儀正しい子、全部求めます。

その場、その時で最高な子供であることを求めます。

最高であれば、優れた子の親として、世間が褒めてくれる、と思うからです。

子供は世間から自分が賞賛される為の道具です。


情緒が幼いから、自分が一番でいたいのです。
だから、家庭内では子供の価値を貶めます。
世間には、優れた子の親であることを誇りたいのに、
同時に、自分より劣った存在であることを、子供に求めます。


世間に褒めて欲しいのは、子供では無く、自分です。
自分が、優れた子供のよく出来たお母さん、とほめられたいのです。

だから、子供の尻を叩きます。

世間には優れたことを誇りたくとも、結局自分が一番でいたいのです。

だから、子供の頭を押さえつけます。

子供に、優れた子と劣った子の両方を常に求めますから、子供はいつも尻を叩かれ、頭を押えつけられます。


つまり、機能不全家庭は、情緒未成熟な親の幼児的願望を叶える為の仕組みです。

情緒の成長を止めてしまった幼児的な親の無価値感を補填するには、幼児的願望を叶えることが必要で、

それによって自分には価値がある、と思うことが出来るのです。

子供の人格には、その幼稚な親は考えが及びません。

その親の生きる目的は、幼児的願望の達成、即ち、無価値感からの逃避です。

子供の人格が尊重されることは無く、道具として重宝されます。

しかし、愛も尊重も知らない親は、子供を道具として、重宝している状態を、人として尊重している、と思っています。

道具として、「便利、便利」と愛でていることを、愛している、と信じています。

子供は生まれた時から、道具として扱われていますから、親がそれを、愛だ、と言えば信じます。

親も子も信じ込んでいますから、機能不全家庭は、内側からその全貌を見渡す者が現れることは少ない上に、

外から見ても、ちゃんとした親子に見えることがほとんどです。

仮に、親子関係や、心のこと、を日頃から気にかけている人物が、
その親子の関係性に、歪なものを感じ取ったとしても、

そこに踏み入ることは難しいと思います。

簡単なことではありませんが、やはり、機能不全家庭の中に、気がつく人が現れることが、

そこから逃れる道の様に思います。

機能不全家庭に於いて子供は苦しい立ち場に立たされます。

子供の苦しみの上に機能不全家庭は建っている、とも言えます。

あまりに苦しくて、

苦しいが故に、気がつくことがある、と思うんです。

小さな疑念を見つけたら、

それは、気づきのきっかけです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム




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