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どうせ今、生きづらいなら、生きづらさを有効利用しない手は無い
安易に人にレッテルを貼って、この人はこんな人、と決めつけてしまう事は、とても危険だと思っています。
レッテルを貼る人は、物事の捉え方が柔軟性を失う場合が多々ありますし、
レッテルを貼られた人は、全てを知っているかの様に、他者から決めつけられるのは迷惑でしかありません。
それを承知の上で、
他者を無闇にジャッジしない、
人の在り方に善悪、正誤、優劣は無い、
と自らを戒めながら、
あえてお話しをさせて頂きます。
大まかな傾向として…、と捉えて頂きたく思います。
心の在り様に物差しを当てると、大まかに言って、人は三つに分かれると思っています。
目を開けて現実を見る人、
目を閉じて想念に生きる人、
目を閉じて生きて来て、ある時目を開く人、
の三つです。
目を開けて現実を見る人は、心に確かな【自分】という意識、が育っている人です。
確かな【自分】という意識が育つには、安心感が必要です。
自分はただ存在するだけで価値が有る、という自分の存在に対する安心感です。
安心感に抱かれて、【自分】は育ちます。
その安心感を与えるのは、親の役目です。
その子の幼少期に、親が肯定的な態度で接し、
無条件に受け容れる事で、安心感はもたらされます。
安心感に抱かれて心に、確かな【自分】という意識、が育った子供は、
自分の存在に疑問を持つ事無く、現実を見つめ、現実を生きる人になります。
目を閉じて想念に生きる人は、安心感を与えられない幼少期を過ごし、自分には価値が無い、という感じ方が染み付いています。
親は基本、否定的な目でその人を見ました。
受け容れられるのは親の気分や好みに合致した時、という条件付きの受け容れに晒された為に、
自分の感情を投げ捨てて、親の顔色を伺い、親の感情を察知し、親の望む子供になってみせる幼少期でした。
その子に安心感は無くあるのは、自分はそのままでは価値が無い、親のメガネにかなって初めて受け容れられる、という無価値感です。
無価値感にまみれたその子は、確かな【自分】という意識、が育ちません。
幼い子供は徹底的に無力な存在です。
幼い子供は一人では生きられません。
そんな無力な幼い子供に、安心感を与えるのは、親の最初にして最大の責務です。
少なくとも、幼いその子に安心感を与え、その子の心に、確かな【自分】という意識、が芽吹くところまでは、親の責務です。
芽吹いた、確固たる【自分】、を頼りに人生を歩み、【自分】を大きく強く育てるのは、その子自身ですが、
その子に安心感を与え、確固たる【自分】を芽吹かせるところまでは、親、なのです。
何故なら、幼いその子は未だ、一人では生きられない儚い存在だから、です。
人生の最初の段階で、安心感に包まれる事無く生きざるを得なかった人は、
確固たる【自分】が芽吹かず育たず、【自分】が育っていないから、自分の目で現実を見る事が出来ません。
現実を見る事が出来ないから、思考が造り出す、想念、に生きてしまいます。
想念に生きる限り、現実に触れる事が出来ず、人生は他人事に感じられ、砂を噛む様な虚しさに溺れます。
その虚無感に捕まった状態が、生きづらさ、と言えます。
目を閉じて生きて、ある時目を開く人、とは、
親から安心感を与えられず、自分を育てる事が出来ず、
生きづらさを抱えて人生を歩き、
虚しさ、辛さ、苦しさを味わった後に、
抱える生きづらさに気がついて、
生きづらさを手放した人、です。
目を開けて現実を見る人は、安心感に裏打ちされた、自分には価値が有る、という感じ方が当たり前なので、現実を見る事が出来ます。
目の前の出来事に迷い無く集中する事が出来ます。
目の前の出来事に集中出来る人は、全てが自分の上に経験として積み上がり、
自分を更に大きく強く育て、それが豊かな人生を形作ります。
目を閉じて想念に生きる人は、自分には価値が無い、という無価値感に苛まれ、
目の前の現実と対峙する前に先ず、自分の中で暴れる無価値感をねじ伏せなくてはなりません。
その内側の闘いにエネルギーを費やす限り、目の前の出来事に集中する事は難しく、現実をしっかり見る事が出来ません。
現実と触れ合わない人生に愛着は薄く、他人事に感じられ、虚しさにまみれて、思考が生み出す想念に生きるしか無くなります。
目を開けて現実を見て生きる人には、目を閉じて想念に生きる人の苦しみを理解する事は難しく、
目を閉じて想念に生きる人は逆に、目を開けて現実を見る人の気持ちが解りません。
同じ人間でありながら、なかなか触れ合う事が出来ません。
しかし、かつて目を閉じて想念に生き、ある時、目を開けて現実を見る事が出来る様になった人は、
どちらの気持ちも分かる人、になります。
安易に、レッテルを貼って他者をジャッジする事無く、
本当の意味で分け隔ての無い人、になります。
今、生きづらさの最中に在る人は、
苦しみから解き放たれたい一心かも知れません。
長く苦しんだ日々は溺れるだけの、記憶から切り捨てたい忌まわしいもの、だと感じているかも知れません。
しかし断言出来るのは、
苦しんだから、苦しむ人の気持ちを解る事が出来ます。
そしていつか目を開いたから、現実を生きる人の気持ちが解ります。
広く深い理解は、豊かな人間性を物語ります。
今、生きづらいならば、
その生きづらさを知る自分が、
どれだけ豊かに生きる事が出来るか、という可能性に目を向けて欲しく思います。
今、生きづらい人は、
広く、深く、豊かになる為の切符を持っています。
使わない手は無いのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム