どうせ自分のことなんて誰もわかってくれない
アイツはちっともわかっちゃいない、
会社のトップは社員のことなんてどうでもイイと思ってる、
国は国民を馬鹿にしている、
どうせ誰もわかってくれない。
自分の気持ちを、周囲が汲むべきだ、という感覚に執らわれると、
世の中は途端に腹立たしい世界になります。
口には出さなくても、心の中で、
「どうせ自分のことなんて誰もわかってくれない」
と思っている人は、実は、周囲に過大な期待を持っています。
期待していればこそ、常に裏切られた様な思いに支配されます。
期待の大きさが、適正範囲であるならば、
分かってくれる人も居れば、
思いが通じない人も居て、
分かってもらえる場合もあれば、
意見がすれ違うこともある、
と、最初から、当たり前な事、という感覚があります。
時に、期待し過ぎたな、と反省する事があり、
逆に、もっと相手を信頼すれば良かったかな、と感じることがあっても、
相手に対する期待が適正な範囲であれば、それは、人間関係に於ける機微であり、誤差であり、味とも言えると思います。
人は人に、健康的な期待を寄せ、互いに擦り合わせながら、関わり合うのだと思っています。
ほとんど「どうせ自分なんて…」とか、「誰もわかってくれない」という思いに沈む事はありません。
心は、取り出して、見てみる事が出来ませんから、自分の心情の全てを把握出来る人は居ないとおもいますが、
「どうせ自分なんて…」と、
「誰も分かってくれない」は、
心の有り様を、如実に表す、リトマス試験紙、の様な言葉だと思っています。
生きていて、浮き沈みの波は誰にもありますが、健康的な心理状態にある人は、前述した「どうせ…」と「誰も…」の心境には、ほぼほぼ陥る事がありません。
あまりにも相手と意見がすれ違ったなら、
「噛み合わないな」
「どうすればいいだろうか」
とは思っても、
「どうせ自分なんて」
という思いに沈むことは、そうは有りません。
自分の考えや主義主張に、周りの理解が全く得られない時、
「この人達とは考えが違うな」
「更に理解を求めるか、ここは一歩引くべきか、思案のしどころだな」
とは思っても、
「誰もわかってくれない」
という思いに執らわれることは、とても少い、と言えます。
「どうせ自分なんて」は、無価値感に苛まれるから、執らわれる思いです。
自分を受け容れてくれない相手を恨みがましく思い、
相手から受け容れてもらえない自分を無価値に感じます。
「誰もわかってくれない」は、自分の思いを周囲は受け容れて然るべき、という過大な期待を裏切られた恨みがましさが滲んでいます。
感情的に、自分と他人を分ける事が出来ていません。
つまり、自他を分ける感情の境界線が曖昧です。
この「どうせ…」の根っこに有る、無価値感、と、
「誰も…」の根底に有る、感情の境界線の曖昧さ、は、
人生を重々しいものにする、大きな要素、だと思っています。
その人は、ある日突然に自分を、無価値だ、と思った訳では有りません。
その人は、今日、心理的境界線が曖昧になった訳では無いのです。
おそらくは、幼い頃に繰り返し、無価値な扱いを受け続ける環境に育ったものと思います。
心が白く柔らかであったその頃に、その子が慕って止まない存在から、深く傷つけられた過去が有る、と考えます。
深く傷つく事で、その子は、自分には何の価値も無い、という、思い込み、を心の内壁にべったりと貼り付けてしまったのです。
その、思い込み、は心の成長を阻害します。
自分は存在するだけで価値が有る、という、安心感が心の成長の養分です。
安心感に包まれて初めて、心は充分に成長し、確かな【自分】という意識、が芽生え、育ちます。
その【自分】の外郭線が、自分と他人を心理的に分ける、感情の境界線、です。
つまり、【自分】と、感情の境界線、はワンセットであり、
【自分】が有るけれども、感情の境界線、が曖昧な状態はあり得ませんし、
感情の境界線が、くっきりと引かれているのに、【自分】が育っていない、という事も無い、のです。
「どうせ自分なんて」
「誰もわかってくれない」
という感じ方に馴染みが有るか否か、注意深く、自分の心を見つめて欲しいのです。
その感じ方に、馴染みが有るなら、
自分は無価値であるという、思い込み、が隠れています。
自分と他者を分けることが出来ていません。
その原因は、心の内壁に、無価値な思い込み、を貼り付けていること、です。
思い込みは、何処まで行っても、単なる思い込みに過ぎません。
思い込みなんて、剥がすことは、いつだって出来ます。
「どうせ自分のことなんて誰もわかってくれない」
という感じ方は、無価値な思い込みが創り出しています。
見つけたなら、
いわれの無い思い込みを、
手放すタイミングなのかも知れません。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム