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不本意に生きる必要など無い

本来、親から最大限の愛情を受け取る筈の季節に、
愛情を受け取る事が出来ない人がいます。

受け取る事が出来ないばかりか、その大半の場合、その子は、逆に親に愛情を与える事を強要されます。

幼少期の早期(4歳未満)は、ひたすら親から肯定される事で、子供は自分には価値が有る、と言う感覚を育てます。

ところが、無価値感が強い親は、子供から肯定される状況を意識的、無意識的に創り出します。

親が子供から肯定される状況とは、親が子供の欲する事を察するのではなく、
子供が親の顔色を伺い、子供が親の欲する事を叶えようとする状況です。

親が子供に大人しくする事を望み、子供は本当ははしゃぎたい気分なのに、少しもはしゃぎたくなんかない、という態度や表情を作る状況です。

子供が自分の感情を殺し、親の望む感情表現を選ぶ、この時点で、
この家庭は機能不全家庭であり、
この親子は親子の役割が逆転しており、
この状況は虐待です。

子供にとって、この季節は二度と無い、無償の愛を享受出来得る人生唯一の季節です。

その子の中に価値ある自分という意識を構築する時なのです。

その時に、無償の愛を享受出来ないばかりか、逆に無償の愛を与えなければならない事は、子供にとっては、過酷極まりない環境なのです。

その子は、自分の中に価値を見出す事は難しく、自分は無価値である、という強固で頑なな、信念にも似た思い込みを、その心に刻み込みます。

その思い込みは、やがてその子の人生に深い影を落とし、「生きづらさ」になって行きます。

「生きづらさ」の原因は、幼少期の圧倒的な「愛情不足」、そして親からの「愛情搾取」と言って良いと思います。

ややこしいのは、そうした親に虐待の自覚はほぼ無く、
子供も生まれた時からその状況下で育ち、その環境しか知らないので、虐待されたという自覚は無い事が普通なのです。

しかし、子供に自覚が有るか無いかに関わらず、必ず生きづらさを抱える事になります。

愛情不足の子、愛情を搾取された子は洩れなく「生きづらさ」を抱えます。

心の事に方程式は無い、と思うのですが、愛情不足の子が生きづらい人になるという、残酷な方程式は存在します。

生きづらさは、現れ方は様々なのですが、共通項として、他者の世話をする事が本当は苦手であり、嫌いです。

原因は、与えられなければならない筈の愛情が与えられないばかりか、親から搾り取られてしまっているのです。

他者(我が子であろうとも)に与える程の愛情のストックはありません。

しかし、ここも難解な部分ではあるのですが、愛情不足、愛情を搾取された人は、親を世話する立場に立たざるを得なかった人です。

いわゆるヤングケアラー等と呼ばれたりする「世話係」的な存在だったりするのです。

幼少期から、親を満足させる世話係として生き、本人もその生き方しか出来なくなっている事が少なく無いのですが、

本人も気がついていない心の奥には、望まない事をしないではいられない「不本意」さが根雪の様に堆積しています。

本当は
「世話をして貰いたい。」
「愛情を与えて欲しい。」
「褒めて貰いたい。」
「認めて貰いたい。」

そんな満たされない幼少期の無念でいっぱいなのです。

本心に気づく事もなく、逆らった生き方をすればする程、根雪の様な「不本意」な思いが堆積するのです。

では、その様な「不本意」ながら「無意識」に他者の世話係として生きる人は、生き方を変えることは出来ないのでしょうか?

その過酷な生き方から脱する人は沢山居ます。

では、その方法は?

自分が心の中に根雪の様に積もらせている「不本意」さに気づく事が何よりも大切です。

一言に気づくと言っても幼い時から「世話係」として生きて来た訳です。

不本意ながら、「世話係」に徹さないと生きる事が出来なかったのです。

もはや、
私=世話係 という思い込みは、本当は他者の世話をするのは苦手だし嫌いだ、という本音を覆い隠し、反動形成的に、
人の世話をするのが好き、人の世話をするのが生き甲斐と思い込んでいる人は少なく無いのです。

だから、先ずは、自分が自分の望みを無視して、物事の好き、嫌いから、やりたい事、やりたくない事なども、

好きに違いない、やりたいに違いないと感じていて、その実、それは、親が好む事を自分の好きな事と決めつけている事に気づく事からだと考えます。

そもそも、そういったカタチで「生きづらさ」を抱える人は、
自分が何色が好きなのか、
自分はどの数字が好きなのか、
から
どんな動物が好きなのか、
そもそも動物が好きなのか、
といった何でも無い好き嫌いを見つける事が一歩目である気がします。

なにしろ、好き嫌いも、親が好む答えをオートマチックに探す癖が付いているのです。

幼い時は、親が世界の全てです。
親が育ててくれなければ生きられないのは事実です。

その、親から捨てられたら生きられない、という瞬間の判断が、

大人になった今も尚、続いてはいないでしょうか。

幼い時は、誰もが無力です。

しかし、成長した今、自分の生きる力を過小に評価していないでしょうか。

好きな物なんか、自分の直感で決めて良いのです。

世の中の大半の事は、好き嫌いを優先して構わないと思います。

周りから、多少困った人と思われたところで、無力で無くなった今、

立派に生きて行けるのです。

親から愛されるべき季節に、逆に親に愛を注いだ人は、

我が身を削る、最大の親孝行を既に済ませているのです。

その子が愛情を搾り取られたおかげで、親は自分の心の傷から目を逸らし、その子が親の痛みをそっくり背負ったおかげで、親は抱える生きづらさに呑まれる事無く生き延びたのです。

今更、親を恨むことで、親に執らわれ、親に怒りをぶつけることで、親に囚われる必要はありません。

だから、

これからは、胸を張って、自分を優先して、自分の人生を生きて良いのです。

不本意に生きる必要などない、私はそう思います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム


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