心に「安心感」無き「成功体験」は「砂上の楼閣」
世の多くの人が抱える「生きづらさ」の正体は、
余程のレアケースを除いて、大半の場合が幼い頃に負った、心の傷です。
表現を変えれば、いわれの無い「思い込み」とも言えます。
例えば、
目の前の事に挑戦出来ない、尻込みしてしまう。
その原因を、過去の失敗によって自信を失っているからだ、とよく言います。
その対処法は、小さくても良いから「成功体験」を積み上げることだ、と言います。
それは、間違いないことだと思います。
ただ、「生きづらさ」を抱えている場合は、根本の原因は別に有ります。
冒頭に触れた、
幼い頃に負った「心の傷」です。
幼い頃に心に刻んでしまった、いわれのない「思い込み」です。
「思い込み」を心に刻み込んだ代わりに、失ってしまったものがあります。
それは、
自分に対する「安心感」です。
自分には価値が有る、という自分の存在に対する揺るぎない「安心感」です。
心の中から「安心感」が失われ、
刻み込んだ「思い込み」の内容は、
自分には価値が無い、という感覚、「無価値感」です。
成功体験を重ねても、心に自分の存在に対する「安心感」が無い限り、
成功が信じられません。
成功して尚、それは偶然、それはまぐれ、たまたまのラッキー、としか思えません。
なぜなら、自分は「無価値」なハズ、だからです。
その思い込みは、もはや信念とも言える程、強固なものなのです。
その信念が有る限り、成功は偶然でしかなく、
偶然の積み重ねは、どれだけ積み上げたとしても、「成功体験」にはなり得ないのです。
手に入るのは、
「また偶然に上手くいくかも知れない」という、淡い期待に過ぎず、
「成功体験」から本来得られる筈の、自信 には、ついぞ届きません。
つまり、
過去の失敗によって自信を失っている状態ならば、小さな「成功体験」を積み上げて、自信は再構築されます。
しかし、
「生きづらさ」を抱えていたとしたら、先ずは、自分は無価値だ、という「思い込み」を取り払い、
本来、誰もが携えている筈の、自分の存在に対する「安心感」を掘り起こすことが、必要なのだと考えます。
仮に「安心感」が無いままに、小さな「成功体験」を積み上げたとしても、
それは、砂上の楼閣に過ぎず、風の一吹きで脆くも崩れ落ちます。
砂上であっても、積み上げる時は、かりそめの期待感を感じることが出来ますが、
風の一吹きで崩れ落ちた楼閣を目の当たりにした時、
いわれのない「思い込み」は強化されてしまうのです。
より一層、やっぱり自分は無価値だ、という信念が強固なものになってしまいます。
「生きづらさ」を抱える人は、苦しみます。
苦しいから、逃れる為の方策を探します。
そんな最中、出逢った情報によって、
砂の上に高い建物を建てては、その崩落を目の当たりにして、
「思い込み」を強化する人は沢山いると思っています。
述べた様に、
心のことに取り組むとき、
心に「安心感」がある人と、
心に「思い込み」を刻み込んだ人とでは、
自ずと取り組む内容は違いが有る、と思っています。
先ずは、自分の心の状態を知ることで、
取り組む方向は見えて来ます。
生まれた時から、苦しい環境に置かれた人は、
苦しいのが、当たり前で、
苦しい状態しか知らないので、
自分の、心の状態を知ることは、とても難しいのですが、
ひとつ言えるのは、心に「安心感」が有る人は、
望まない出来事が起きていない時、
何も無い時に、苦しい感覚は有りません。
何も無い時に、焦りを感じてはいません。
ずっと苦しかった、
ずっと焦っていた、
そんな人に「心を見極める」ことを求めるのは、本当に難しいのですが、
目を凝らして、耳を澄まして、感覚を研ぎ澄ませて、
感じてみて欲しいのです。
必ず、見えて来ます。
必ず、聞こえます。
必ず、感じることが出来るんです。
願わくば先ずは、
そこから始めて欲しく思っています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム