尊重されたか、所有されたか、ほめられたのか、おだてられたのか
おだてること、と、ほめること、の違いが分からない親は少なく無い様に思います。
誰かを、おだてる、ときは、自分の要求を通したい、自分を受け入れて欲しい、といった意図があります。
どれだけ相手を賞賛しても、自分の為、です。
ほめる場合に、自分の利、は無く、ただ相手に心を動かされ、賞賛します。
あくまでも、自分から見た相手に対しての賞賛であり、自分への照り返しを期待するものではありません。
親が子供を肯定的に受け容れる親子関係に於いては、親は子供の人格を認め、一人の人間として尊重しますが、
親が子供を否定的に捉える親子関係に、尊重する姿勢は無く、
親が子供を自分の従属物と見做し、自分が在って子が在る、主が自分で従が子供、
つまり、親が子供を所有する関係性であり、親は、子供は親の為に生きている、と認識しています。
そう認識しているのは、意識のずっと奥の方であり、親は子供を尊重している、と意識の上では思い込んでいます。
尊重しているのか所有しているのか、さえ分からないのですから、ほめているのか、おだてているのか、の区別もついていません。
子供を尊重する、ということが無いのですから、その親子関係には、おだてる、ことはあっても、
ほめる、ことが、そもそも成立しません。
その子は、おだてられる、ことはあっても、ほめられる、ことの無い幼少期を過ごす、ということです。
そういった親子関係の中で育つと、学校でも社会に出てからも、見え透いたおだて、や、お世辞に弱く、
おだてられると、気分がどこまでも高揚し、
ほめられる場面では、居心地の悪さ、納まりの悪さ、を感じてしまう傾向が強い様です。
おだてられること、には慣れ親しんでいます。
そしてほめられた経験が無いのです。
だから、慣れ親しんだ感覚の方が居心地がいい、のです。
しかし、その慣れ親しんだ感覚は、親が要求を通し、親が自分を全面的に受け容れさせるときに味わう感覚、
要するに、道具として利用される時に味わう感覚です。
学校や社会で、道具として利用される感覚に引き寄せられる、ということは、
その人は自ら、欺き、利用するズルい人ばかりを周りに集めることになります。
おだてられて利用される親子関係で味わった感覚を、
学校や社会で求めれば、人間関係はおだてられ、利用されるばかりになってしまいます。
利用する人と、利用される人は、同じコインの表裏です。
どちらも人格を尊重されず、所有される環境に育ったのです。
だから、お互いに慣れ親しんだ匂いを感じて引き合います。
学校でも、会社でも、転校しても、職場を変えても、
同じ様な人が現れ、同じ様な人間関係のトラブルを抱えることは、無いでしょうか。
もしも、そういった事が有るとしたら、
周囲のズルい人の自分に対する仕打ちに気を取られるばかりでは無く、
自分が慣れ親しんだ感覚や、懐かしく思う人間関係の匂いに、注意を払う事も必要なのかも知れません。
お互いに、利用している意識も、利用されている意識も希薄なままに、
気がついたら、トラブルを抱えてしまいます。
生きづらさ、を見つけることは、
慣れ親しんだ感覚を疑うことから始まるのが常です。
自分は所有され、おだてられ、利用されて、育ったのか、
それとも尊重され、ほめられ、愛されたのか、
そこから紐解くことも、無駄では無い、と思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム